第46話 ずっと


 キスが終わって、唇が離れる。テーブル越しにされたキスだったから、夕雨は遠くに感じた。


「だから…嫌です」


「何が?」


「何がって…未嗣さんは何だか女性の扱いがうまいし、だから…離れるのが嫌です。今のテーブルの距離だって嫌です」


「それは…困ったな」と言って、未嗣は椅子を移動する。


 二人でテーブルの角を囲んで座る。


「これでいい?」


「いいですけど…。離れたら別れそうで…」


「別れるの?」と驚いた顔で未嗣が聞く。


「別れたくないですけど…」


「別れたくないって思ってもらえて、嬉しい」


 素直に喜んでいる未嗣に恨めしい気持ちになった。未嗣がピザを手にしたので、夕雨も照り焼きチキンのピザを手に取った。甘辛いソースがピザ生地に合ってる。


「大丈夫だよ。僕は待てるから」


「…私は待てません」と大真面目な顔で夕雨が言うので、未嗣は笑った。


「でもいろんな人に会うのもいいかもね」


 夕雨の手からピザが落ちた。お皿に少しはみ出して、落ちたので無事だった。


「いろんな人に会う? 他の人を好きになってもいいってことですか?」


「まぁ…好きになるっていうか、いろんな人を見てもいいかもしれない。夕雨ちゃんはまだ若いし」


 皿から少しはみ出したピザが歪んで見える。


「…未嗣さんは…私のこと…若いって、まだ子供みたいに思ってるんだろうけど…。私はずっと…」と言ってから夕雨は口を噤んだ。


 夕雨は自分が言いたかったことに驚いて言葉を無くした。今、自分の意思で喋っているはずなのに、『ずっと好きでした』と言いそうになった。そのずっとは出会ってからよりももっと深くて、長い気がする。今、そのことを不思議に思っている気持ちと、ようやく思いが叶ったという気持ちが混ざっていて、自分でも混乱した。

 未嗣を見て、心から好きだと思うこの気持ちは一体、どこから来るのだろうと不思議に思う。優しくて、顔がいいからだろうか。親切にされたからだろうか。どれも当てはまってはいるが、でもそれ以上のものがある気がしていた。


「夕雨ちゃん?」


 涙を流しながら未嗣を見ていた。


「…私…離れたくなくて…。でも未嗣さんの言うことも分かりますけど…。私の気持ちは変わることないんだと思います」


 未嗣が手で涙を拭ってくれる。


「だって…私…未嗣さんに会うために生まれてきたから」


 自分でもびっくりするようなことが、口から出る。でもその言葉は嘘じゃなかった。驚く未嗣を見て、夕雨は涙を零して微笑んだ。


「だから他の人を見なさいなんて…聞きたくなかったです」


 未嗣は軽く目を閉じて「驚いたな」と呟いた。

 そして素直な夕雨の気持ちに胸を突かれる。


「僕は…夕雨ちゃんより大人だから…。余裕を持たないとって思って…だから、他も見たらって」


「見、ま、せ、ん」と言って、夕雨は未嗣に向かって、顔を顰める。


 その顔を見て未嗣は「どんな顔も可愛い」と言って笑いながら、頰を撫でる。その手を取って夕雨は眺める。


「変?」


「いいえ。手も…好きです」と言って、ペンダコのようないぼにそっと触れた。


「手も好き?」


「未嗣さんの手に触れて…嬉しいです」


「手ぐらい…いくらでも」


「私…ずっと…この手に触れたかった」と言って、未嗣の手に触れた。


「多分…あの写真の人が私の前世だったら、きっと…未嗣さんの曾祖父さんが好きだったんだと思います。でも…叶わなかったのかな。振られたのかもしれない」


「振った人の写真…大事にしてるかな?」


「確かに…。それはそうですね」と夕雨は大切にされていた写真を思い出す。


「じゃあ、曾祖父さんが写真の人に片思いしてたとか?」と言って、未嗣が夕雨の手に手を重ねる。


「それはないです。絶対に」と夕雨が言い切れるほど、恋しい気持ちが溢れて、さらに夕雨がその手の上に重ねた。


「ないって…」と言って、夕雨の頑固な様子に思わず笑ってしまう。


 笑いながら、一番上に手を重ねる。夕雨が手を引こうとすると、ぎゅっと掴まれた。大きな手にすっぽり包まれている。夕雨が動かそうとしても少しも動かない。苦心しているのを見て、未嗣が笑っている。


「本気なんですから、笑わないで下さい」


「じゃあ…お互い好きだったけど…、別れなきゃいけなかったのかな?」


 夕雨はじっと未嗣を見た。それが一番しっくり来る気がした。未嗣の力が緩んだ瞬間に夕雨は手を引いた。うまく抜け出せて、夕雨は安堵のため息をつく。


「理由は分からないですけど…。どうしてか一緒にはいられなかった気がします」


「時代もあっただろうし…。戦争で離れたのかな」


「やっぱり…写真の人…戦争で亡くなったのかも?」


 不意に火の粉が怖かったのを思い出す。足元から来る恐怖に動けなかった。


「そうかもしれないね。…あの時代、生きるのも大変だったと思うけど」


「恋愛どころではなかったのかな…」と夕雨は首を傾げる。


「それで…今は…僕に会うために生まれてきてくれたんだったら…結婚しない?」


 突然、言われて夕雨は動きが止まった。


「そしたら心配なく、留学もできるんじゃない?」


 夕雨はなるほどと思いながらも、突然過ぎて、言葉が出ない。


「いや?」


 嫌なわけはないと首を何度も横に振る。


 結婚、結婚、結婚、という言葉が夕雨の頭の中でぐるぐる回り始めた。

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