第45話 最後の夏


 ハナはしばらく大原家にも行かず、キヨの家にも行かず、ずっと家で過ごしていた。手首のソノの爪痕も薄くなって残っている。母は結局、父に結婚の話はしなかった。ウメが水羊羹を作ると言うので、一緒に手伝っていると、玄関先で声がした。ちょうど小豆が炊き上がったところで、濾す準備をしていた。


「ウメさん、ちょっと待っててくださいね」とハナは言う。


 ハナは濾す作業が好きで、楽しみだった。急いで玄関に向かうと、大原の母だった。綺麗な白い紗の着物を着て立っている。


「こんにちは」


「こんにちは。あの、どうぞお上がりください」と慌ててハナは言う。


「いいのよ。最近、お顔を見れてないから…どうしたのかしらと思って。これ、どうぞ」と菓子折りを渡された。


「ありがとうございます。あの、どうか上がって下さい。母は不在ですけど」


「…ハナさん。この間のこと…、なんだかひどいことを言ったような気がして。あなたを制限する訳ではなかったのよ。ただ噂が…少しうるさくて」


 キヨの家で踊りを習うのをやめて欲しいと言われてから、ハナは体調不良だと大原家に伝えていた。


「えぇ。わかっております」


「体は大丈夫なの?」


「…はい。すっかり良くなり…まして。それなのに申し訳ありません」


「それは…いいのよ。先生たちも夏休みなので…来られないとおっしゃって。そうではなくて…正雄さんが来られたのよ」


「え?」


「それであの髪結の女性があなたを襲ったって聞いたから」


 驚いて、清の母を見た。


「もう怪我は治ったの?」


「大した怪我では…」とハナは袖を直した。


「正雄さんから聞きました。たまたま踊りの練習中にあの方がいらして…勘違いなさったみたいで。本当にごめんなさいね」と頭を下げる清の母に胸が潰れそうになる。


「そんな。私が…悪いんです」と小さな声で言ったが、清の母に聞こえたのかは分からない。


「…しばらくゆっくりなさって。涼しくなってから家にまた来たらいいわ。清もその頃には帰ってくるでしょうし」


「はい。…ありがとうございます」


 正雄がわざわざ大原家に行って、謝ってくれた。その心遣いが胸を苦しくさせる。


「ではこれで」と言って、本当に玄関先で帰って行った。


 後ろ姿を見送ると、玄関の戸を閉めて、ハナは涙を流した。正雄が清の母にハナと関係ないと伝えたことで、もう決定的に正雄から別れを告げられたことと同じだった。優しい気づかいと、そしてお別れの意味があった。セミがうるさく泣いているから、ハナの泣き音は掻き消される。玄関に置かれた菓子折りは缶に入った舶来物のビスケットで、歪んで見えた。


 涙を拭いて、台所へ戻る。ウメが待ちくたびれたのか、あんこを少しずつ濾していた。


「お嬢さんが来るのを待って、丁寧にしておりましたよ」と言う。


「ごめんなさい」


「どちら様で?」と言って、目の赤いハナを見たものの、それについては何も言わなかった。


「大原様の…お母様です。ビスケットを頂きましたので、後で一緒に食べましょう」


「ビスケット?」と目を丸くしてウメはいう。


「せっかくだから作ったあんこを挟んでみましょうか」とハナが言うと、「もったいない」とウメは言った。


「でも…美味しいと思うんだけれど」


「水羊羹は水羊羹。ビスケットはビスケットで二つ楽しめるのですよ。一つにしたら勿体無いですよ」


 確かに…とハナは思ったが、想像するだけで美味しそうなので、一口だけ…とウメにお願いすることにした。ウメはなんだかんだとハナに甘いので承諾することになる。そして二人で餡子作りに励んだ。


 縁側に座って、二人でビスケットを齧った。ハナのには餡子を少し乗せている。


「お嬢様のは贅沢な食べ方です」とウメは言いながら、ビスケットを齧った。


 夏の日差しが影ろうとしている。夕暮れになると少し涼しい風が入ってくる。


「ウメさん、今度はアイスクリーム二人で買いましょうか」


「そんな贅沢はいけません。このビスケットで十分ございます。お嬢さんは本当に大切に育てられて…。私もよくおんぶさせて頂いたものです」


 よくウメは「産後の肥立ちが悪かった奥様に代わって、お嬢さんの母親がわりをさせて頂きました」と言う。そのせいか、ハナもウメによく懐いた。


「私…ウメさんにもアイスクリームを食べさせてあげたくて…」


「そのお気持ちだけで十分です」


 来年の夏にはこうして二人で並んで夕涼みをすることもないだろう。ウメはパチンと手を叩いて蚊を落とした。


「そろそろ蚊取り線香を使いましょうか」とハナが言う。


「みなさん帰ってきますしね」


「今日は…ウメさんの蚊帳に入ってもいいですか」


「お嬢さんは本当に…ウメが好きですねぇ」と笑ってくれる。


 玄関で母の声がして、友人宅から帰ってきたようだ。二人で迎えに出る。今日は一郎も一緒に出かけていた。水羊羹を作ったと言うと、嬉しそうに母も一郎も笑顔を見せた。ハナはもうしばらくでこの家を去るのだと思うと何もかもが貴重に思える。


 夜はウメの部屋に行き、一緒に眠った。一郎が生まれると、ハナはウメのところで眠るようになった。寂しいという気持ちは少しはあったが、ウメが好きなのでそれはそれで良かった。

 ウメが軟膏を手に擦り付けているので、ハナは彼女の肩を揉んで疲れを癒す。


「お嬢さんは揉むのがお上手で」と気持ちよさそうに言う。


「ねぇ…。ウメさん。私…」


「お嬢さん。大丈夫ですよ。お嬢さんはきっと幸せになりますとも」


 一生懸命励ましてくれるウメにハナは心配かけてはいけないと思った。


「可愛い赤ちゃんできたら、ウメさんに見てもらおうかしら」


「…そりゃあ、お嬢さんの赤ちゃんだったら、きっと可愛いでしょう。たまにはウメが面倒みますよ」


 そんな話をしながら、二人は布団に入った。ウメの軟膏の匂いが懐かしく、すぐに眠った。



 翌朝、清から国際郵便が届いた。ロンドンについてすぐに手紙を書いてくれたらしい。ハナはその手紙を読みながら、清を裏切ろうとしていた自分を恥じた。決して清が嫌いな訳ではない。こんなに心を尽くしてくれる人を大切にできなかった自分を反省する。


「清さんと…一生を過ごそう」とハナは手紙を読みながら、心を決めた。


 清への返事には夏休みに入り、少し花嫁修行を休ませてもらっていることを謝った。そして清の母からビスケットをもらったこと、そこに餡子を乗せて食べたら美味しかったこと、そんなことを書いた。最後に「お会いするのを楽しみにお帰りを待っております」と書いた。

 それは本心である。清に会って、心を決めるつもりだ。


 手紙を出そうと、表に出た。玄関横に朝顔が置かれている。

 朝顔はもう昼になり萎みかけている。ウメが育てているのは綺麗な紺色の朝顔だった。

 その年の夏はことのほかゆっくり過ごしたような気がする。何もかも翌年には見られない風景だと胸に刻んだ。

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