第44話 手慣れたキス
眠ってる間にタクシーは未嗣のマンションに着いた。
「夕雨ちゃん、着いたよ」と言われて起きる。
お金を払っている間に、夕雨の家に行ってもらった方がいいか? と未嗣に聞かれた。夕雨は首を振って、タクシーから降りる。
まだ日が明るかったし、未嗣とゆっくりしたかった。
「お腹空いてない?」
そう言われてみれば、クリームソーダくらいしか飲んでいなかった。
「じゃ、何か食べようか」と言うので、夕雨は未嗣に部屋でピザが食べたいと言う。
ちょうど向かいに宅配ピザの店がある。テイクアウトして家でゆっくりしたかった。
「ピザ?」
「はい。ゆっくりしたいのと…うちではなかなか宅配ピザ食べれなくて。宅配すると高いって…言うから…」と言うと、「いいよ」と未嗣は笑った。
種類が豊富なので、色々なのが混ざったピザを注文する。焼き上がるまでしばらく待った。
「さっきの…大丈夫?」
「火の粉が上がるのを見て、怖くなって…。戦争…かな。戦争で亡くなったのかも」
「…そうかもね」と未嗣は言うが、それを確証するものはなにもない。
「今までも火が怖かったりする?」
こんなにおかしくなるほどはなかった。花火だって怖い事もない。
「…魔女狩りにあってたりして」と言って、夕雨は笑った。
少し息を吐いて、未嗣は「笑えるようになってよかった」と言う。
それでも未嗣は、過去を探すことが夕雨の負担になるのなら、辞めようかとも思っているし、知ったからってどうなるわけでもない、と言う。でも夕雨は首を振った。
「何だか、知らなければいけない気がするんです」
毎晩、同じような夢を見て、夢の中で見たようなバイト先で、未嗣に知り合って…と考えると、どう考えても、過去からのメッセージのような気がしてならない。
「…無理はしないで欲しいな」
「でもほぼ未嗣さんが調べてくれてるんですよ? 私は何もしてなくて…」
そう言うと、未嗣は少し困ったような顔で、「色々調べている間に…もし僕がひどいことを夕雨ちゃんにしてたら…って思ったりした。それを知ったら嫌われるかもしれないって」と言う。
「ひどいこと…ひどいこと…。例えばどんな?」
「うーん。分からないけど」
確かに過去を知って、それが喜ばしい物でなければ…やはりわだかまりが残るだろうか、と夕雨は思った。悩んでいるとピザが焼けたと案内される。持ち帰りは半額になるので安い。半分出そうとすると、未嗣に断られた。
「留学の費用にとっておきなさい」
「え…。私…留学しても…いいですか?」
「いいも何も…。それは夕雨ちゃんの希望なんだから。僕に聞かなくてもいいよ」
焼きたてのピザを持って、道路を渡って、向かいのマンションに行く。
「未嗣さん…寂しくなりますね」
そう言うと、未嗣が笑う。
「僕だけ? 寂しいのは?」
「あ、もちろん私もですけど」
焼きたてのいい匂いがマンションのエレベーターに充満する。夕雨は海外の大学へ行くつもりではないから、語学学校に一年留学して日本に戻ってくるつもりでいるが、一人で寂しい未嗣はその間に誰かと結婚するかもしれない。それを思うと、夕雨の気持ちは揺らいだ。
「やっぱり行くのやめようかな」
「どうして?」
「だって」と言った時にエレベーターの扉が開く。
「だって?」と聞き返しながら鍵を取り出そうとしているので、夕雨がピザを預かった。
ピザのチーズの匂いがダイレクトに夕雨を刺激する。
「それは…食べながら考えます」
「何、それ」と笑いながら鍵を開けて、夕雨を部屋の中に入れた。
蚤の市で買ってきたグラスを未嗣が洗って、夕雨が炭酸水を注ぐ。分厚いガラスに泡が登った。同じグラスがあるとやはり特別な気持ちになる。未嗣が言ってたことが分かった気がした。
ピザは数種類混ざっているのを買ったので、最初はスタンダードなサラミが乗っているのを手にする。熱々のピザは美味しくて、あっという間に胃のなかに入っていった。幸せそうな夕雨の顔を見て、未嗣は「一生ピザを食べさせたい」と言う。
「たまに食べるから美味しいんです」と頰を膨らませた。
テーブルの向こうから未嗣の手が伸びて、その膨らんだ頰を指で突くと「さっきの話だけど…留学はした方がいい」と言った。
「え? でも…心配で」
「心配? 僕が寂しいって言うから?」
「そうです。でも…その間に未嗣さんが他の人と結婚するかもしれないし」
「ん?」
「他の人と…結婚するかなって」と言いながら、シーフード味を手にした。
「僕が夕雨ちゃんじゃない人と結婚するの?」
「そうです。留学してる間に寂しくなって…他の人と仲良くなって…それで結婚するんです」と言ってピザを齧る。
味付けはまろやかだが、少し物足りない気がする。
「へぇ。それで?」
「それでって…。考えてみたら、英語はどこでも頑張れば習得できますけど、未嗣さんは…そんなわけにいかないし。きっと留学なんかしなければよかったって後悔すると思うんです」
シーフードピザには立派なイカが乗っていたが、食感だけであまり味がしなかった。
「なるほどね。まぁ、確かに日本でも英語は習得できるね」と嬉しそうに笑う。
「だから…辞めとこうかなって」と言って、最後のかけらを口に入れる。
美味しそうに食べる夕雨を見て、未嗣は微笑んだ。
「いや、行った方がいい」
「え? どうしてですか?」と夕雨は驚いて聞き返した。
「僕はここで待ってるから」
待っている未嗣を想像すると、胸が締め付けられた。妻を失い、一人になってここにいる未嗣がペアグラスのある部屋でまた一人になる。
「嫌です」
「え? どうして?」
「そんな寂しいこと…絶対嫌です」
「…うん? でも…」
「だから…あの…なんか想像したら、ものすごく…」
涙が溢れる。もう一人にしたくなかった。未嗣が親指で夕雨の涙を拭いて、そのままキスをする。手慣れた優しいキスだった。
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