第43話 本当の気持ち


 大原邸に花嫁修行の帰りがけに、清の母に声をかけられた。応接室に案内される。いつもは挨拶もあるかないか分からないくらいで終わるのだけれど、今日は折り入って話があるようだった。ソファに腰掛けるように言われる。どうも長い話のようだった。


「ハナさん、踊りを習っていらっしゃるそうね」


「…はい」


 特に言ってなかったので、どうして知っているのかと驚いて母を見る。


「そこに下宿してる男性がいらっしゃるとかで…」


「はい…。あの…山本先生です。清さんのお友達の…」


「あら? 正雄さん?」


「はい。いらっしゃる時は…たまに英語の分からないところも教えていただいてます」と嘘ではないが、誤魔化すように説明した。


「正雄さん…」と言いながら、ハナに視線を合わせた。


「あの方、女性遊びが少々激しいから…捨てられた女性の方の愚痴かとは思いますけど、大原家の婚約者が踊りを習いに行ってる場所で男性と逢引してると噂を立てられてましてね」


「え」と思わず声を上げた。


「その方、髪結い屋さんで、まぁ…方々でそんなお話されてるものですから。特に華族の方に贔屓されてるようで。私も一度、お会いしたことがあるから…知ってはいますけど。綺麗ですけど…あの女性…少し嫌らしさを感じて…。まぁ、それはいいですけど。噂とは言え、困るのです。他のところで習われるか、お辞めになって頂きたいのです」


 そう清の母に言われて、ハナは俯いて承諾の返事した。


「でしたら、私の方からデマでしたと説明させて頂きますので。今日はよく頑張っていらしたので、お疲れでしょうから、これで」と清の母は立ち上がる。


「大変、申し訳ございません」と頭を下げた。


「あら、いいのよ。運が悪かったのね。…正雄さんにも困ったものね。お嫁さん、私が探しましょうかしらね。少しは落ち着くかしら。そう言えば…三条さんのお嬢さんなんてどうかしら。ふふ。怒られるかしらね」


 ハナは正雄にも結婚相手ができるということに、胸が痛んだが、「ええ」と相槌を打った。


 そして用意してくれたリキ車で家まで戻る。いつも途中で正雄と行った蕎麦屋を横目で見る。また行きたいと思ったが、あれから一度も行けなかった。ソノの復讐とでも言うべきか、髪結をしながら、ハナのことを有る事無い事、話しているのだろう。清と結婚しても、色々言われるに違いない、と思うとため息が出た。

 それにもうキヨの家にも行けないことが悲しかった。自分の人生が閉じられていくようで、胸が塞がった。


 リキ車が止まり、ハナは車から降りた。家の前にソノが立っている。


「何か御用でしょうか」とハナは声をかけた。


 ソノは笑いながら、ハナに近づいてくる。


「ねぇ…。マサちゃん、知らない?」


「え?」


「今まで会ってたんでしょ?」と酒でも飲んでいたのか、ゆらゆら揺れている。


「いいえ。私は…」


「そう言えば…髪の毛、セットするって約束してたわよねぇ。今から来ない?」


「今からは…ちょっと」


「いいじゃないの」と言って、ソノはハナの手首を掴んだ。


「…今日はもう」とハナも抵抗するが、ソノは爪を立てる。


 手首から血が滲んだ。


「あら。手当しなきゃ…」と言いながらソノは笑う。


「大丈夫です。離してください」


 ハナは少し大きな声を出した。家から母が出て来た。


「…何してるんですか?」とソノに声をかける。


「いやあね。髪の毛綺麗にしてあげようって言ってるのに」と言って、ようやく手を離して去って行った。


 ふらつきながら帰っていくソノの後ろ姿を見てハナは少し怖くなった。正雄は無事だろうか、と思っていると、「ハナ、怪我してるじゃない」と母が駆け寄る。手首から血が滲んで流れていた。そういえば、ズキズキする。


「誰なの?」


「…お母様。向日町の…髪結さんです」


「それがどうして…こんな。お父様に相談しましょうか」


「いいえ…。大丈夫です」


「とりあえず早く入りなさい。手当しましょう」と言って、ハナの家の中に入れた。


 消毒液を塗られて、包帯を巻かれる。


「傷が残らないといいのだけれど」と言って、心配そうに言う。


「私…結婚は」


「何があったの?」


 キヨの家で踊りを習っていることは伝えているが、正雄とソノの話はしていなかったので、その話をして、噂を流されて、大原家にキヨから踊りを習わないように、と言われたことも話した。


「じゃあ、痴話喧嘩に巻き込まれたって言うことじゃないの?」


 表向きにはそうなるだろう。でも…ハナの気持ちの上では巻き込まれただけではなかった。そもそも自分が問題なのだと分かっている。


「私…山本様のこと…」


「ハナ。山本様と一緒になりたいの?」と言って、母が手を握る。


「…はい」


 母は深いため息をついた。


「お父様は今日は遅番だから…お話は明日になると思うけれど…。相談してみないことには…」


 大原家との格の違いを母はやはり案じていたから、ハナの気持ちも分かる。こうして花嫁修行として週に二日も連れて行かれて、内心、思うところはあった。


「お母様、ありがとうございます」


「でも…説得できるかは」と母も口籠った。


 ハナのことを考えて、大原家に嫁に出すと決めた夫の気持ちも理解できる上に、頑固な夫がそう簡単に決めたことを反故にするとは思えなかった。何かいい案でもないか、と思ったが、母に話して、少し気が楽になったのか明るい表情の娘を見ると、どうにかして上手く伝えなければ、と思った。


 食後に玄関で「夜分、ごめんください」と正雄の声がした。


 ハナは何事かと思い、慌てて玄関に出るが、母も後から付いてきた。母は小走りで急ぐその後ろ姿を見て、気が重くなる。ハナが玄関を開けると、すぐに正雄はハナの様子を聞いた。


「ハナさん…。怪我をしたって聞いたんですが、大丈夫ですか」


「あ、えぇ。大したことありません」と言って、包帯を巻かれた腕を隠した。


「ソノさんから聞きました。どうやらご迷惑をおかけしたようで」


 ソノはあの後、正雄のところに行ったようだった。ただソノから謝られずに、正雄からソノのことを謝られるのは何だか少しハナの胸が騒ついた。


「今晩は。よければ上がってください」と母は言う。


 ハナの気持ちは分かったが、正雄の気持ちも確認しておきたかった。


「あ、今晩は。夜分すみません。いえ、あのすぐに帰りますので。お怪我の具合が気になりまして」


 母はその正雄を見て、慌てて家まできたのだから、あながちハナの気持ちだけではないのだろう、と理解した。


「いえ、あの大事な話がございます」と母はそう言って、家に上がるように言った。


 そうして居間で話を聞くことにした。お茶を出したものの、正雄は手もつけずに座っている。


「あの…髪結の方がうちの娘にどうして…」と母は聞いた。


「それは…僕の不徳といたすところです。彼女が勘違いをして、ハナさんにご迷惑をおかけして…」


「ソノさんとお付き合いされてると言うことでしょうか?」


「…はい」


「結婚なされるんですか?」


「いえ」


 少し母の眉が眉間に寄ったのをハナは見た。


「それと…うちの子が山本様と一緒になりたいと言うのですけれど」と母は率直に言った。


「え?」と正雄は驚いて、ハナを見る。


 ハナは流石に恥ずかしくなって、下を向いた。


「まぁ、これは…大原家には何も言っておりません。ただハナの気持ちがあると言うだけです」


「それは…」と正雄は言葉に詰まった。


 あまりにも俯いているハナが可愛そうで…用意していた言葉が言えなくなる。ソノがハナに攻撃的になっているので、怪我の様子を聞いて、もう会えないと伝えるつもりだった。


「ありがたい言葉ですが…。親友の婚約者ですし…。僕は…だらしのない男で…」


 俯いているハナから涙が落ちるのを見た。慰めてあげられたら…と。しかしそれができずに正雄は両手をグッと握った。


「では…ハナのことは特に何も?」と母は分かっているのに尋ねた。


「可愛い…妹の…」


「妹ですか?」


 そうだと言うべきなのに、目の端に入る小さくなっているハナを見ると、断言できずにいる。


「妹だと思っておりました…が。、あまりにも…愛らしく…」


 残酷な言葉の枕詞じゃないのか、と正雄は思いながら言う。


「立場も弁えず…惹かれてしまいました」


 ハナが顔を上げて正雄を見る。期待のこもった大きな瞳が揺れていた。正雄は少し微笑んでから、目を逸らした。


「ですが…お会いするのはこれで最後に」


「ハナは…必要ないと」


「いえ。僕のような者にはもったいない素敵な女性です。…どうかお幸せに」と正雄は頭を下げた。


「どうもお時間取らせまして」と母も頭を下げる。


 ハナだけが言葉なく正雄をじっと見ていた。しばらくして、正雄は立ち上がり、母も立ち上がった。玄関まで見送ることもできずにハナはその場で蹲った。声を上げることはなかったが、涙が流れて、止まらなかった。居間に戻った母が横に座る。


「しばらくゆっくりなさい。大原家には花嫁修行も休ませてもらいなさい。風邪を引いたといえばいいでしょう」


 少しも動かない娘の背中を母は優しく撫でた。



 正雄は月夜を歩いて、今日は鰹姫をだいぶ待たせていることに気がついた。それでも今日は急ぐ気持ちになれなかった。ハナは覚悟を持って自分の母に気持ちを伝えたのだろう、と言うことが分かる。ただやはり清を裏切ることはできない。そしてソノがハナを傷つけたり…いろんなことを考えると、会わない選択をするしかなかった。

 ハナは自分でなくともきっと幸せになれる、そう言い聞かせる。夜の足音が響いて、定期的に聞こえるその音が耳障りだった。



 

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