第41話 よいお座敷


 夏休みに入り、ハナはキヨの家に通うことになった。英語の理解不足を正雄に補習してもるだけでなく、踊りも教えてもらいたかったからだ。きちんと月謝を納めながら、習うことにした。正雄がいない時でも、ハナはキヨの家を訪ねた。


「今日は暑いわねぇ」と言いながら、キヨはハナが来ると嬉しそうな顔をしてくれる。


「お師匠様、いつもお綺麗です」とハナが言うと、「いやねぇ」とキヨは笑う。


 キヨは仕草や体つきが女らしくて、ハナもそう言う女性に憧れていた。稽古をして、簡単な踊りが少し踊れるようになった。


「あぁ、可愛い」とキヨは言いながら、教えてくれる。


「ここでねぇ、少し首を傾げるのよ。そう」と優しく手を添えてくれる。


 そうこうしていると、正雄が帰ってきた。


「あら、良い時に来たわね」とキヨは言って、玄関の正雄に「ちょっと良いものを見せてあげるから、いらっしゃいな」と声を掛ける。


「良いもの?」


 ハナが来ているのは玄関の履き物で分かる。


「ほら、ハナさん。さっきやった踊りをやってみましょう」と言って、キヨは三味線を抱えて、歌い始める。


 ハナは慌てて、習ったように踊る。正雄が見ていると思うと恥ずかしいけれど、キヨに教えてもらったように、きちんと小首を傾げる。正雄はハナが一生懸命踊っているのをぼんやり見ていた。芸者とは違い、色気はないが、愛嬌があって可愛らしい。頰も桃色に染まって、ひたむきさが伝わる。

 ハナが踊り終わると、正雄は拍手をした。


「確かに良いものを見せてもらいました。どこのお座敷より良いです」


「先生、言い過ぎです」とハナは恥ずかしそうに笑う。


「こんなに可愛い踊りは新橋でも見られないわよ」とキヨも言った。


「お世辞でも嬉しゅうございます」と言って、ハナは習った通りのお辞儀をした。


「じゃあ、次は正雄さんの番ね。私、少し買い物に行ってきますので」と言って、キヨは三味線を置いた。


 正雄に英語について教えてもらう時間はハナは以前とは違って、どうしても緊張してしまう。キヨがいなくなるとならば尚更だ。顔をあげることはできなくて、だからいつも正雄の手を見てしまう。大きくてゴツゴツした、そしてペンダコのある指。


「ハナさん? どこが分からないんですか?」


「あ…この…。 once in a blue moonをエリー先生が教えてくださったんですけど、ちょっと理解ができなくて」


 エリーに英語で説明されたが、よく分からなかった。


「あぁ、これは慣用句で…滅多にないこと…って言う時に使います」


「あ、そうだったんですね。何だか素敵な表現ですね」と言って、ハナはノートに書く。


「…そうですね」と言って、正雄は軽く笑った。


 つまらない感想を言ってしまったと、ハナは俯く。そんなハナが可愛くて仕方がなかった。笑った顔も落ち込んだ様子もずっと見ていたかった。そんなことを女性に対して思ったことは初めてしかもしれない。


「あ、先生。あのウサギの人形、ありがとうございました」と今、思い出したように言う。


「あぁ…。何だか欲しそうでしたから」


「…それは…そうですけど。でも大切にしますね」


「じゃあ、分からないところはそれだけですか?」


「あ…今週はそこだけです」とハナが言うと、正雄は「優秀なので、補習は必要ありませんでしたか」と訊く。


「いえ。そんなことは」とハナは言いながら、分からないところを次回はきっちりメモしてくると言う。


 何だかおかしいことを言っていると思いながら、ハナはエリーが分からないことを教えてくれないかと変な期待をしてしまっている。

 お暇しなければいけない雰囲気を感じて、ハナは鞄の中から鰹節を取り出して、正雄に渡した。


「これを…」


「あぁ、ありがとうございます」と言って受け取る時に指先が触れた。


 たったそれだけなのに、ハナの顔が赤くなる。もういっそ、手を握ってしまいたくなるのを正雄も必死で抑えた。


 キヨが近所の八百屋から帰ってきた時、二人とも黙ったまま座っている。ハナは顔だけ赤くして俯いていたので、何事かと思ったが、何事もなさすぎて、硬直状態だったらしい、とため息をついた正雄の様子で分かった。


「ハナちゃん、お時間ある? 少しお料理手伝ってくれない?」とキヨは声をかける。


「はい」


「ハナちゃんの手料理、正雄さんに何か食べてもらいましょう」


 キヨの提案に、ハナは嬉しそうに返事をする。正雄はしばらく上で記事を書くと言って、立ち去ろうとしていた時に玄関でソノの声がした。


「ごめんください」


「あら、またあの人」と言ってキヨは正雄の顔を見る。


 たまに居留守を使っているようで、今日は居留守を使うのか、どっちか確認した。正雄は首を横に振る。


「はーい、只今」と言いながらキヨが玄関に向かう。


 真っ赤な口紅にこざっぱりした藍色の夏着物を着て、立っていた。


「あいすみません。マサちゃん、いらっしゃるかしら?」


「…あいにくと不在でして」


「あぁ、そうなんです? それで可愛い草履がありますけど。見覚えのある…ハナちゃん? いらっしゃいます?」


「え? お知り合いですか?」


「えぇ。ハナちゃん、ここで何されてるの?」


「あぁ、踊りを習いに来てるんですよ」


「踊り?」


「えぇ。私が踊りが得意なもので」


「…そう。でも奥さん、気をつけなさいよ。…ハナちゃん、婚約者いらっしゃるでしょ? それなのに逢引のお手伝いしてるなんて…」


「いいえ。立派な花嫁修行です。…本当に毎回、ご足労様です。お帰り次第、お伝えしますけどね。最近、夜もふらっと出かけたきり、戻ってきませんのよ。ソノさん宅は本当に居心地がよろしいようで」と最後は嫌味を言った。


 そう言うと、そのは少し苛立った様子で出ていき、玄関の戸を音をたてて閉めた。最近、正雄がソノの家に泊まることはおろか少しも会えていない。


「やれやれ」とキヨは言いながら、正雄の前に座る。


「女遊びもよろしいですけど…。終わるなら、きちんとご自分で終わらせてください」


「…すみません」と正雄は頭を下げる。


 その姿を見て、ハナは少し笑った。


「え?」と正雄もキヨもハナを見る。


「あ、ごめんなさい。怒られてる先生が少し可愛くて」と言って、ハナは勝手に動きすぎる口に自分で手を当てる。


 それを見て、キヨは「確かに可愛いわねぇ」と笑った。


 正雄は少しムッとしたが、明るいハナの笑顔が見れて、嬉しくもあった。その日はハナが作ったカボチャの煮物をお裾分けしてもらって、部屋に篭った。小説を書きつつ、新聞のコラムや、広告の記事を書いたりして、仕事をしている。締め切りがあるので、取り掛からなくてはいけないと思いつつも机の上のカボチャを眺めては、ハナの笑顔を思い出していた。

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