第39話 逆戻り


 正雄は来た道を戻りながら、何をしているんだ、と自問自答しながら歩く。苛立ちを感じているのはソノに対してなのか、自分に対してか、それとも両方なのか分からない。丁度、ハナたちが連れ立って、店を出て、二人組に別れていた。ハナと一緒の女の子が二人で歩きながら話している。明るい笑顔で話しているのなら、正雄はそれで良かった。ハナが友達と楽しく会話している様子を一目見たかっただけなのに…、それを見れたら少しは気が晴れたはずだったのに…横顔は項垂れ、泣いているように見えた。

 

「ハナさん」


 気がついたら思わず声をかけていた。驚いた様子でハナは正雄を見た。ただ驚きの中に喜びのような明るさもあった。その隣にいた友人も正雄の方を見る。


「…先生」


「どうして…」と正雄は泣いている理由を聞こうとして言葉を無くした。


 聞いたところで、どうしようもない、と分かっていた。隣にいた友人は二人を見て何かを察した様で「ではハナちゃん、御機嫌よう。また学校で」と言って、正雄にも頭を下げて静かに去って行く。


「えぇ。ご機嫌よう」とハナは小さな声でそう言って、友達を見送った。


 そして慌てて鞄からハンカチを出して、涙を拭いて、正雄に用向きを尋ねた。


「…エリー先生の英語はどうですか?」と正雄に思いがけないことを聞かれて、ハナは声が震える。


「大変分かりやすく…丁寧に…」


「僕よりもですか?」


「先生…と…同じ位…です」と答えながら、正雄が何を聞きたいのか分からなくなる。


「では補習は必要ないですね」と冷たい声で言われる。


 エリーは優しく丁寧に教えてくれるが、まだ日本語が不自由な点もあり、またハナもそこまで流暢な英語ができるわけでもなく、たまに分からないまま進むこともあった。そのことを正雄は心配してくれているのだろうか、と思った。


「それは…必要ないほどできてるわけではございません」


「…では補習をキヨさんの部屋で行います。それだったら良いでしょう?」


「キヨさんの?」


「…えぇ。二人きりはあなたも来辛いでしょうから。分からないところは持って来て下さい」


 途端にハナの顔が明るくなる。その顔を見て、正雄は胸が痛んだ。


「ご親切にありがとうございます」と言って、勢いよく頭を下げる。


 リボンがついた髪が揺れて、甘い匂いがした。


「あの…鰹姫様はお元気ですか?」


「あぁ。律儀に同じ頃合いに顔を見せてくれています」と言うと、ほっとした様な笑顔を見せる。


「私も鰹節持っていくので、食べさせてあげてください」


「…分かりました。家まで送りましょう」と言って、正雄は一緒に並んで歩いた。


 正雄の隣を歩くのが久しぶりな気がして、ハナは嬉しいような恥ずかしいような気持ちになったが、すぐに清のことを考えて、浮かれている自分を抑えた。正雄が袂からキャラメルを取り出した。


「今日はもうお腹いっぱいだろうから、明日、食べてください」


「先生はいつもキャラメルをお持ちですよね? お好きなんですか?」


「…鰹姫の鰹節のように、キャラメルを渡したい人がいるから持っているだけです」


「渡したい人? ソノさんですか?」


「あの人は甘いもの食べませんよ」


 正雄はそう言ったが、甘みどころに今日、来ていたので不思議だった。首を傾げるハナに正雄はキャラメルを差し出す。ハナは手を出して、受け取った時、それが自分だと分かった。


「…先生」


「なんですか?」


 ハナは何を言って良いのか分からずに「ありがとうございます」とお礼だけ言って、鞄にしまった。


 ただ正雄の気持ちが嬉しくて、でも思いが通じ合ったとしてもこの恋は叶わないと…ハナは知っていた。花嫁修行で失格の烙印を押されるかと思いきや、ピアノやダンス、テーブルマナーなど難しいながらも楽しくできていて、それを清の母に褒められていた。


「ハナさんは一生懸命だからいいわ。きっとすぐにうまくなるわよ」とまで言われて、ハナはその声には応えようと思っていた。


 それでも正雄に会いたい気持ちが勝ってしまった。約束をして、家まで戻る。母に帰宅の挨拶をすると、すぐに部屋に戻った。鞄からキャラメルを取り出し、セルロイドのうさぎの前に置いた。清を裏切るわけではないと思いつつも、正雄に会いたい自分を抑えられなかった。


「きっと…私…ひどい罰を受けるわ」


 そう呟いて、でもそれでも構わないと思う自分がいた。



 正雄はハナを見送ると、自分がしたことの罪深さに苦しくなった。ハナを遠ざけていたのに、理由を作って会うことにしたこと。誰にも良いことはないのは分かっていた。でもハナの笑顔を久しぶりに見た時、正雄は気持ちを止められなかった。

 どうにかして約束を取り付けようと、騙すような形で、ハナを誘った。どうしてハナに執着するのか自分でも分からない。あの清廉潔白な親友の婚約者だからだろうか。女なんて、誰でも同じだと思っていた。抱いて終えば、馴染みができて、いつも詰まらなくなる。手に入らないからこそ、執着しているのだろうか、と考える。


「用事は終わった?」と家の前でソノが待っていた。


「あぁ」


「じゃあ、家に来ない?」


「いや。仕事があるから」


「そう。いつでも来て良いわよ」と言って、ソノはそのまま帰って行った。


 ソノはハナを遠ざけるために付き合った女だった。忘れるための手段だったのに、結果的にハナにまた近づくことになった。そして小さくなっていくソノの後ろ姿を眺めつつ、彼女も傷つけ、周りを振り回して、自分は一体、何がしたいのだろうかと思った。

 軽く頭を振る。それでもハナの嬉しそうな笑顔が消えない。そして正雄もハナに会える喜びを否定はできなかった。

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