第35話 最後のわがまま
翌日、ハナが学校から帰って来ると金魚は亡くなっていた。陶器の鉢に入れようとしたが、それを用意する前に白い腹を浮かせて亡くなった。
ハナはそれを見て
「どうせ死ぬなら、飼われても、自由でも同じかしら」と呟いた。
結局、あの後、お参りまで二人と一緒に行動し、ひよこはどれが雌なのか見分けがつかなくて、金魚だけ手にして帰って来た。途中、おもちゃ屋で一郎がベイゴマを買い、ハナはセルロイドの人形を見たけれど、さすがに二人の手前、買わずに帰った。手にしたのは金魚だけだったが、その金魚も失ってしまった。悲しみで浸されていたが玄関で人の声がする。ウメさんも母も用事で出かけていた。
「ごめんくださーい」と大きな声なので、ハナは慌てて玄関に向かった。
声の主はソノだった。
「あたし、これから髪結で呼ばれてるんだけど、マサちゃんが欲しがってたから」と言って、ハナに包み紙を渡す。
「え? 正雄さんが欲しがってたのに?」と言って、受け取る。
「はぁ。人形。欲しかったんでしょ? マサちゃんがあんたのために買ってたから。あたしが届けてあげたの。全部言わないと分かんないのねぇ」と言って、出て行こうとした。
「あの…ほんの少しだけ…待っててください」と言って、ハナは慌てて、自分の部屋に行く。
あの日、渡せなかった手紙を持って戻る。
「あの…」
「マサちゃんに渡すの? あんた…」と言って、受け取って、本当に急いでるようで、そのまま出て行く。
慌てて見送ろうと外に出ると、リキ車を待たせていたようで、それに乗って「じゃあ」とソノは言った。そして去っていく姿を見送った。ハナはその姿が新しい女性の生き方のように思えた。部屋に戻って、包みを開けると、昨日、ハナが縁日で見ていたウサギのセルロイドの人形が入っている。
どうしてソノが届けてまでくれたのかは分からないが、正雄の気持ちがこもっているような気がして、そっと胸に抱いた。
(これはお嫁に行くときに持っていこう)と机の上に置く。
そうだ、と思いついて、櫻子先輩から頂いたリボンをウサギの頭に結ぶ。少し長いので二重にしてから結んだ。大切な思い出が重なったので、ハナはこれは何があっても持ち出そうと決めた。
しばらくそのウサギを眺めて幸せな気分と寂しい気分とに襲われる。櫻子先輩に手紙を書きたいと思っても、連絡がないままで住所が分からなかった。元気にしているのだろうか。便りのないのはいい便りと言うが、不安も募った。もうすぐ夏休みになる。夏休みに入ると、大原邸に週二回通うことになっている。そしてこの家で過ごす最後の夏休みだと思うと、胸が詰まる。
なんだかんだとあったが、来年の早春に清が戻ったら結婚することになっていた。
正雄はソノの家の二階に上がっていた。ソノは一度帰ってきたものの、また急いで出かけた。その時に、ハナから手紙と言って渡された。
「山本先生様へ
今までのご指導のこと、厚くお礼を申し上げます。そして私の身勝手な行いで、先生にも大原様にもご迷惑をおかけしたことを反省し、申し訳なく思っております。
わずかな時間ではございましたが、先生とのお時間はかけがえの無いものでございました。
きっと一生の思い出になることと思います。
最後のわがままとして、私の写真を贈らせて頂きます。いつか先生の小説をご拝読させて頂きますのを楽しみにしております。それまでどうかご自愛くださいませ」
ハナの写真が入っている。清との縁談の話が来て、その時に撮った写真だろう。緊張して、すましている顔のハナが写っていた。
「最後のわがまま…か」
そんなことをされたら、一生忘れられないじゃないか、と正雄は思った。そして床に転がって、何度も手紙を読み直した。
清に誘われて、正雄がビアホールに呼ばれて出かけた日があった。正雄が店に着くと、清は先に座ってすでに飲んでいた。
「急に悪かったね」と清はいつもと変わらない様子で言う。
「あぁ、何かあったのかい?」
「先に注文をしたまえ。奢るから好きなものを」と言って、メニューを差し出す。
店は大賑わいで、お客が多く騒がしかった。だからゆっくり話すことではないのだろうか、と思いながら注文をした。
「それで?」
「ハナさんから二人で会いたいと連絡が来た」
「それは良いことだ」と正雄は言ったが、清は首を横に振った。
「正直に言って欲しいのだが。君はハナさんに特別な気持ちがあるのか?」
こう言う時の清の目は細長さが一層細くなり、厳しい光を持つ。
「正直に言うと、可愛らしいお嬢さんだと思ってるよ」
少し苛立った様子で、テーブルを人差し指で叩いて、重ねて聞く。
「僕が聞きたいのは、君が特別な気持ちがあるのかって言うことだ」
いつも冷静な清が苛立ちを隠さないと言うことがどれほどのことか正雄は分かって、観念して正直に話すことにした。
「…ある。だが、結婚するのは君だと思ってる」
清は少しも動かなかった。どういう判断をしているのかは分からないが、彼が感情に任せて怒ることはないだろう。いつも冷静に的確に判断する男だったから。
「そうか。では…もう君に英語を教えてくれと言うようなことは言えないな」
「…分かった。話はそれだけか?」
「あぁ。…後任を決めて欲しいのと、女性にしてくれ」
「探してみるよ。…それから…すまなかった」
「…いや。僕が軽率だった。でも君だったから信頼してた」
「…それは尚更悪かったな」
それを聞くと、また清は目を細めた。
「僕は君のことも好きだから、嫌な気持ちになりたくないんだ」
(…だろうね。優しく正しい君のことだから)と正雄は思ったが口にしなかった。
学校で浮いていた正雄にまで声をかけて、親切にしてくれた男だ。裏切ることはできないし、その精神は高潔そのものだ。だから人間の汚い部分を見たくはないだろうし、正雄も見せたくはなかった。
「同じだ。だから君には幸せになって欲しい」と正雄は言った。
ビールが運ばれてきた。正雄は一気に三分の一は飲んだ。
「君にも素敵な人がいればいいのだけど」と清が言う。
正雄は笑って「今が一番気楽だから気にしないでくれ。それに…ハナさんは特別な気持ちとは言っても、妹のような気持ちだから」と嘘をついた。
「妹?」
「そうだろう。可愛いけど…色気が、ね。足りない」と言って笑う。
「そんなもの…」と清が反論するのを見て、正雄はさらに笑った。
「だから色気のある女性と恋愛するから気にしないで欲しい。まぁ、ハナさんも、家族以外の男性は初めてだろうし、たまたま美男子だったから惹かれたのかも知れないなぁ」ととぼけた調子で言う。
「は? そんな訳ないだろう」
「結婚が決まると、女性は不安になるもんだよ。特に君の家は大変そうだし。それに比べたら気楽な美男子がよく見えるだろう」
「そうだろうか」
「そりゃそうだろう。ただの一過性の…幻みたいな気の迷いだろう。寛大な態度で頼むよ。…妹だから」
「本当に妹としか思えないのか?」
「まぁ、妹なんて、いないからどんなものか分からないけれど。…いや、いるかもしれないな。僕が家を出た後のことはあまり気にしてないから。…それはともかく僕は結婚には不向きだし、女はすぐ飽きてしまうんだ。知ってるだろう?」
正雄のことをよく知っているから、確かに正雄の好みの女性ではないと清は思った。それに次から次へと付き合っている女も変わっている。
「…やましいことは何もないんだな?」と今後は正雄の手癖の悪さを心配してくる。
「確かに、手が速いのは認めるけどね。ハナさんは本当に夢見る夢子じゃないか。さすがにそんな子に手を出せないよ。もし何か言ってきたとしてもただ恋に恋してただけのことだろう。君はそれでも嫌なのかい? では結婚を止めると言い出すかい?」
「…いや。それは…。無理だ。僕はハナさんと一生を過ごしたい」
「じゃあ、そのまま何事も無くしたらいいよ。僕は教えるのを止めるし」
「…君じゃなかったら、嫉妬に狂いそうだ」
「それはなんとも…喜ぶべきなのかな」と言って、正雄はビールをまた飲んだ。
何もかもこの喉の奥に流し込んで、腹の奥に収めることにした。清もビールを飲んで、少し表情が和らいだ。清がどこまで信用したのか分からないが、言ってしまったことは事実になったとして、これからは行動しなければいけない。
ハナからの手紙を胸に置いて、天井を見上げているうちにいつの間にか眠ってしまった。しばらくすると軽快に腹を叩かれて目が覚める。
「ちょっとお蕎麦食べに行こう」と横にソノが座っていた。
ソノの家なんだから、ソノが帰ってきても当たり前なのだが、正雄は驚いて起き上がる。胸に置いていたはずの手紙が消えていた。慌てて探していると、「手紙は机に置いた」とソノが言う。
「あの子…マサちゃんのことが好きなのねぇ。喜んで手紙持ってきたもの」とハナの様子を伝える。
「友達の婚約者だよ」と正雄はその様子が目に浮かんでため息を吐く。
「手、出した?」と首を傾げて、ソノは聞く。
「出してないよ。妹みたいに扱ってたら、懐かれてただけだから」
「妹? マサちゃん、妹いたっけ?」
「さぁね」と言って立ちあがろうとする正雄の袴をソノが引っ張って座らせる。
「好きじゃなかったの?」
「別に。可愛らしい子だけどね」
「ウソ。マサちゃん、好きなくせに」と言って唇を突き出してくる。
ため息をついて、正雄はソノに口づけをした。ソノに引っ張られて、体ごと倒れる。下になっているのに、ソノは笑いながら正雄の背中に手を回した。
「それで…あの子、マサちゃんの友達と好きでもないのに結婚するの?」
「あぁ、いいやつだし…結婚には向いてるだろう」
下にいるソノの顔を見ながら、ハナのことを思った。
「マサちゃん…。女を馬鹿にしすぎよ」
「そうかもな…。蕎麦、行かないの?」
ソノは返事をしないまま、正雄の顔を自分の方へ引き寄せた。好きでも何でもない人と体を重ねていれば忘れることができるだろうか、と正雄は思った。今までの女性のように、名前すら思い出せなくなるだろうか、とソノを抱きながら考えていた。
夜が深くなるに連れて、相手も自分も顔も形も分からなくなる。ソノがまるで自分のように思えた。似た二人で一緒にいることがいいのか分からないけれど、今は誰かがいて欲しかった。
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