第33話 別れの後
翌週、正雄が連れてきたイギリス人の先生はエリーと言って、明るい髪色と薄茶色の瞳だった。ハナは思わず、じっとガラス玉のような目を見てしまう。
「よろしくお願いします」とハナは頭を下げると、エリーは明るく笑って、握手をしてくれた。
挨拶だけ済ませると正雄はさっさと帰ろうとした。一郎が寂しそうに最後だから送っていくと言うし、ウメは作ったお弁当を正雄に渡す。ハナは手紙を書いていたが渡すことはできなかった。ただ黙って、頭を下げるだけだった。
最後に正雄は
「大原も無事に出発したようですし」とハナに声をかける。
「ええ。本当に…」と言って、俯いた。
大好きだった人の顔をもう見られないと思うと、胸が潰れそうになる。でも清が帰ってくるまでの間に、綺麗に忘れなければいけない、とハナは覚悟を決めた。
「お元気で」
「ハナさんも」
そう言って玄関先で別れた。エリーと一緒に家の中に入る。
「ハナ…。ダイジョブ?」と聞いてくれた。
「はい。先生」と笑顔を作る。
「OK?」と言って、玄関を振り返る。
追いかけたい衝動を抑える。
(一郎が一緒に行ってくれてよかった。一郎の前でみっともないことはできないから)
口を結んで、「英語、教えてください」とエリーに言った。
それからしばらく正雄に会うことはなかった。キヨの家にも通いたかったが、行くと会いそうな気がして、控えていた。
正雄に会ったのは、近所のお地蔵様の縁日でだった。一郎がひよ子が見たいと言うので、夕方二人で出かけたのだった。うまく育つと卵を産んでくれるかもしれない。ついでに気晴らしに遊んで帰ろうと二人でお小遣いを持って出かけた。一郎は「正雄兄さんが来なくてつまらない」と最初の方は言っていたが、今は言うこともなくなった。もう綺麗さっぱり忘れているのだろう。少しハナは羨ましくなる。
「金魚掬いしますか?」と一郎が言うので、金魚屋を探す。
少し汗ばむ季節だったので、涼を取るにはちょうどいい気がした。
木桶に赤い金魚たちが泳ぐ様子は涼しげで、ハナも一郎も金魚掬いをすることにした。
「持って帰りたいなぁ」と一郎が言うので、「慎重に取らないと」と花は言う。
何回か掬おうとしても、うまく行かない。そのうち、ついに穴が空いて、金魚がその輪っかを通って行った。
「はぁ、残念」
「取れましたよ」
一匹だけ、一郎が釣ったようで、缶に入れてもらうことにした。受け取った金魚を上から眺める。輪っかの穴から逃げていった金魚と缶にいる捕まった金魚とどっちが幸せなんだろう、とハナは思わず考えてしまった。
「ハナ姉さん…あれ、正雄兄さんじゃないですか?」
そう言われて見ると、向こうから女性と並んで歩いてくるのが見えた。ウェーブした髪を固め、綺麗な化粧を施した女性で、ハナよりも随分年上で、二人は似合っていた。二人で団子を食べながら歩いている。
「そうね。…でも」とハナが行った時には一郎は走り出していた。
「正雄兄さん」と大声で呼んでいる。
ハナは遠くからその様子を眺めた。一郎が嬉しそうに正雄に話しかけている。ハナは人混みに隠れて、横にあった鉢植えの店を見ようと近寄った。
「いらっしゃい」と言われて、困ってしまう。
特に鉢植えは欲しいを思っていなかった。
「この朝顔いいいよ。綺麗な藍色だ。お姉さんに似合うよ」
ハナが困惑しつつ、眺めていると、さらに「こっちは赤みがかった紫だよ。それもいいからね。朝に、こう綺麗に花が咲くと、夏のお日様に感謝したくなるねぇ」と売り人は言った。
「えぇ。…また来ます」と言って、店を離れた。
「朝顔買うの?」と正面にいた正雄に声をかけられる。
どうやら一郎がハナがいると教えたらしい。驚いて挨拶を忘れてしまった。横の女性はハナを上から下まで眺める。金魚を持っているハナは幼く見えてしまうだろう。
「あ、いえ。ひよこを見に来たんです」
「あっち」と女性が奥の方を指差した。
突然話しかけられて、ハナは驚いた。
「ひよこ。でも雄、雌が分からないわよ。食べるの?」
あけすけな物言いにハナが戸惑いながら「食べ…ません」と言った。
そしてなんだか帰りたくなって、一郎にひよこを諦めるように言う。
「姉さん、見るだけ行こうよ。奥にも店があるし。それにお地蔵さんにまだお参りもしてないよ」
「…そうね。じゃあ、お参り行きましょうか」と一郎と二人で行こうとすると、女性がなぜか「私たちも行こう」と正雄の袖を引っ張った。
嬉しそうに一郎が喜んで歩き出す。仕方なく、ハナはついて行くことにした。その後ろに二人が並んで歩く。
「ねぇ、どこの人?」と後ろから声をかけられる。
「え…あの」
「親友の婚約者だよ。入江さんのお嬢さん」と正雄が教えた。
「へぇ。若いわよねぇ。親友ってマサちゃんと同じ年?」
「そうだね」
ハナは前を向いて黙ることにした。
「ねぇねぇ、あたし、何してると思う?」
「え?」とハナはまた振り返った。
「当ててみて」
この女性は言葉が少なすぎて、何を聞いているのかさっぱり分からなかった。
「何って…お団子食べて、歩いてます」
ハナが言った途端、笑い出した。
「そりゃ、そうでしょうよ」と言って、涙が出るほど笑っている。
笑われて気分が悪くなる。それでなくとも正雄と偶然会って、居心地が悪いと言うのに。
「お前さんの聞き方が悪いよ」と正雄が言った。
その慣れ親しんだ間柄のような呼び方がハナの胸に刺さる。
「あ、そう? 髪結って言ったら古い? 美容師してるのよ」とハナに言った。
「そうですか」
「だから後ろから見てたら、綺麗な髪してんなぁ…と思って」
「ありがとうございます」
「今度、結わせて。新しい髪型とか…できるから」
そう言われて、ハナは初めて、この女性に興味が出た。
「まだ若いから、耳隠ししても、リボンつけたりしたらいいわね」とハナを見つつ言う。
さっき、上から下まで眺められたのは職業的な癖だったのかもしれない。
「あたしね、マサちゃんに髪結の亭主にならないって聞いてんの」と突然言う。
「甲斐性ないからって、それはないよ」
「こんな色男…置いといたら、いいじゃないのねぇ」と正雄の袖に絡みつく。
「お似合いだと思います」
「本当? 嬉しい。ねぇ、マサちゃん、うちの二階においでよ。ただで住まわせてあげるからさ」
ハナは美容師というこの女性が苦手だった。でも男を養うというその生活力は羨ましく思った。一郎の背中を追って、歩いているが、ハナは自分が何も持っていない気持ちになった。手に持つ金魚をもう一度見る。
「私、ソノ。向町の橋渡って、すぐのところでやっているのよ。今度、遊びにきて」と今度はハナの横に来て話しかけてきた。
「…髪の毛…。同じようにしてもらえますか?」
ソノは前髪から綺麗にウェーブさせて後ろでまとめていた。
「これ? 簡単よ。いつでもしてあげるからさ。あ、でもあたしもこう見えて忙しいから、ちゃんと約束して」
正雄とお似合いだと言ったから気を良くしたのだろうか。ハナも新しい髪型をしてみたかった。そうすれば気分も変わるかもしれない。ソノはいろんな話をしてくるが相変わらず言葉が少なくて、ハナは何度か聞き直さなければいけなかったし、ソノはその度に大笑いをする。
「ハナちゃん? あんた…世間知らずなのねぇ」
そして、ハナを見て、
「でもその方が幸せになれるかもね」と言った。
その言葉の意味が分からなくて、馬鹿にされているのかと思ったが、どうもそういう雰囲気もなく、真剣な顔でそう言った。そしてハナが持っていた缶に入った金魚を見て、
「本当、可愛いわねぇ」と呟いた。
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