第32話 二人の生活


 一週間もすると、またモーニングの出前が入り、忙しくなった。田村さんは未嗣が気に入っているようだったから、付き合っていることを言った方がいいのか、言わない方がいいのか、悩んでまだ言えなかった。別にプライベートでは連絡を取らない間柄だし、友達というわけでもない。悪い人ではないが性格も合わない気がしていた。


 モーニングの出前ラッシュが終わった頃、

「来週の日曜日に貸切が入ったんだよ」とマスターが言う。


「貸切? ですか」


「うん。大正時代のアニメが流行ってて、みんなでここでそういう格好をして写真を撮りたいらしくてね」


「へぇ」と田村さんはあまり興味なさそうに言う。


「じゃあ、私もそういう格好をしようかなぁ」と夕雨が言うと、マスターが喜んでくれた。


「え? じゃあ、そういうノリなら、私もしたい」と田村さんも乗ってきた。


 大正時代の女給といえば、着物にエプロンだが、二人ともそんなものは持っていない。だから浴衣かなぁ、と話していたのだけれど、田村さんは「親から借ります」と妙に気合が入っている。


「夕雨ちゃんは団体さんだから、ホールだけじゃなくて、作る方も手伝ってくれる?」


「じゃあ…動きやすいのがいいですね。あ、男装しちゃおうかなぁ」


「あ、それいいかも」とまた田村さんが喜んだ。


 弟の中学の頃の制服があったはずだ。ファスナータイプの学ランだけれど、まぁ、それっぽく見えるかもしれない、と夕雨は思って、楽しみになった。お客さんの扮装も楽しみだけれど、自分たちも仮装する楽しみができて、まるで高校の行事のようなワクワクした気持ちになった。


「マスターは何するの?」


「まぁ、ちょっといいカッターシャツにベストに蝶ネクタイでもしようかな」と言う。


「あんまりコンセプトがないですよね」と田村さんが厳しいことを言うが、仕方ない。


 バイト先でこんな楽しいことが起こるなんて思いもしなくて、予約をしてくれた団体に感謝した。当日のメニューはサンドイッチとスパゲッティの大皿盛り、デザートはカスタードプリンだということで、朝の仕込みが大変そうだった。


「あ、当日のメニューもそれっぽく印刷してきましょうか」と田村さんが言う。


 どうも一番、楽しみにしているのは田村さんのようだった。マスターも夕雨も顔を見合わせて笑った。



 夕方、未嗣の家で英語を教えてもらう。昨日書いた英作文を添削してもらっていた。


「ここはaはいらないんだよ。一匹丸々鶏を食べることになってしまうから」


「食べれるかもしれませんよ」と夕雨は頰を膨らませた。


「まぁね。今度、ご馳走しようか?」


「今なら食べれる気がします」


 ご飯を食べた後だと眠くなるから、先に勉強になったけれど、それはそれでお腹空いて集中できない。未嗣の方を向くと、少し笑って「ご飯にしようか」と言ってくれた。


「鳥一匹じゃないけど」と言って、未嗣は冷蔵庫から牛ロース肉を取り出した。


「どうするんですか?」


「すき焼きしようかな? と思って」


 夕雨は嬉しくなって、すぐにノートを片付けた。すき焼き鍋もないので、フライパンでなんとか用意をする。切るだけであとはなんとか放り込むと見た目は不細工なすき焼きになった。


「…未嗣さん、フライパンそっちに持って行きますか?」


「そうだね。でも下に敷くものがないな」


 そう言って、タオルを畳んでおくことにした。何もかも不恰好だが、夕雨は少しも気にならなかった。


「お腹空いたあ。…卵入れますか?」と聞く。


 返事がないので、未嗣を向くと「二人暮らしには…何もかも足りないね」と言った。


「え?」


「いや、自分一人だと鍋敷きなんて必要ない食事だから」


「あ…そうですよね。でも私はたまに来るだけだから…なくても…」と言いながら、二人暮らしという言葉に夕雨は心臓が早くなる。


「…夕雨ちゃん、ここから通えばバイトも楽なのに」


 確かに三軒先なだけだ。


「でも…あの…」と言って、うっかり手を滑らせて卵がテーブルの上に落ちた。


「ごめん。だったらいいのにって思っただけだから」


 未嗣がキッチンペーパーでテーブルの上の卵を拭く。慌てて夕雨も手伝おうとすると手がぶつかった。


「ごめんなさい」と慌てて手をどけようとすると、未嗣の手に掴まれる。


 顔をあげたら、キスをされた。初めてのことで驚きながら、夕雨はテーブルの上のすき焼きが冷めてしまう、と考えていた。


 それから数日間は、バイトをしていても不意に未嗣のキスの感覚が蘇ったり、彼の匂いがした。

 つい手で顔を扇いでしまう。


「今日は暑いもんね」とマスターに言われた。


「そろそろ…夏だからかな?」と夕雨は誤魔化した。


「最近、三条さん来ないね」と言われて、声が上ずりそうになる。


「そう…ですね」


「どうしてるか知ってる?」


 マスターにだけ話すことにした。驚いていたが、「押しに押されたかぁ…」と言った。


「私、押されてました?」


「気づかないの夕雨ちゃんくらいだよ」


 マスターはもう随分前から知っていたと何故か得意げになっていた。


「でも、どうするの? 夕雨ちゃん、留学したかったんじゃないの?」


「はい。それは…したいんですけど。離れててもやっていけるのか…分からなくて」


「まぁ。それはどうなるか分からないなぁ。でもダメになる時は隣にいても駄目になるから」とマスターに言われた。


 何となく重みを感じる言葉に夕雨はため息を吐いた。


 

 

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