第24話 恋するオムレツ
オムレツ作りが気になってしまい、ハナはそわそわとお尻の下でつま先を何度も擦り合わせる。
「ハナさん、なんだか落ち着きないですけど…。もう勉強は止しますか?」と正雄が聞く。
「はい」と潔く言うので、正雄は驚いて、ハナの顔を見た。
いつもなら熱心に勉学に励むと言うのに、今日は少しも身が入ってなかった。
「どうかしたんですか?」
「あ、はい。あの…。えっと」
どう考えても挙動不審である。正雄は少し考えて、袂からまたキャラメルを出した。
「糖分をとりますか? 脳の働きが良くなるそうですよ」
「あ」と言って、思わずキャラメルに釣られるが、首を横に振る。
キャラメルまで固辞するとはいよいよ様子が変だ。
キャラメルを机の上に置いて、正雄は「少し休憩しましょう。厠に行ってきます」と言って席を立った。
いつもならしっかり勉強すると言うのに、一体、何があったと言うのだろう、と思ってみたが、思い当たる節が少しもなかった。あると言えば、週に一度、大原家に行って花嫁修行をさせられていると言うことぐらいだった。日曜日に行っているので、休みがない。かわいそうだと思ったが、流石に口出しできる問題ではなかった。
そんなことをあれこれ考えて、居間に戻ると、ハナの姿は消えていた。机のキャラメルはそのまま置かれている。
廊下に出ると、廊下の向こう側から一郎が走ってきた。
「正雄兄さんと遊んでいいって言われたので来ました」
「それは誰に聞いたんですか?」
「姉さんです」
「はぁ。全く困ったな。君はハナさんの代わりに勉強しませんか?」
「えぇ?」と驚いたような顔で一郎は聞き返す。
「今日はどうかしたんですか? 何だか…」
「ご飯を用意するようですよ。ウメさんと一緒に台所へ行きました」
「ご飯?」
「何だか西洋料理を作るそうです。花嫁修行だとか何とか言ってました」
正雄は首を傾げたが、勉強よりもそちらの方が忙しくなったのだろうか、とも思った。大原家に行くことになったからかも知れない。
「じゃあ…僕はお暇しましょう。教えることがないのでしたら」
そう言うと、目の前の一郎がみるみる落ち込んだ様子になる。そして肩をがっくり落として、悲しそうに「分かりました」と言った。
「ハナさんといい、君も…」と正雄はため息を吐く。
(全く素直過ぎて、困る)と正雄は思ったが、落ち込んだ一郎を前に帰ることができなくなった。
どうせ今日は仕事は夜にしようと思っていたので、将棋を持ってこさせることにした。一郎の顔はすぐに明るくなる。笑顔が少しハナに似ている気がした。机にあるキャラメルを渡すと、素直に口に入れて、さらに笑顔になる。
「今日は手加減しませんよ」と正雄は言った。
「いつもされてたんですか」
「してました。そもそも飛車角抜いてたでしょう」
そう言うと、一郎は「角だけでも…」と言ってくるので、仕方なく角は除いた。いつもは手を抜いていたが、今回は本気で向かうことにした。一郎相手に何をムキになっているんだ、と正雄は思ったが、やはり心のどこかでハナが花嫁修行を優先したのが面白くなかった。
「はぁ…参りました」と一郎が頭を下げる。もう三回も将棋をしているのに、一向にハナは戻って来ない。
「そろそろ夕飯の時間ですね。少々お待ちください」と一郎が言って、立ち上がる。
「いや、お暇させて…」
「まぁ、そう言わずに。姉さん、一生懸命作ってましたから」
「え? ハナさんが? 花嫁修行頑張ってるんですね」
「…ウメさんも姉さんも正雄兄さんに美味しいものを食べてもらおうと言ってましたから」
思わず言われた言葉に正雄は驚く。しばらくすると軽い足音がして、ハナが小さな御前を運んできた。
「一郎、あなたもこちらで夕飯を頂きますか?」とハナが聞く。
「いえ。僕は…まだいいです。それよりうまくできましたか?」
そう言われて、ハナの顔が少し赤くなる。
正雄の目の前に置かれた、箱膳にご飯とオムレツとかぶの煮物と味噌汁が乗っている。
「これは…?」
「オムレツ、作ってみました」
「だから姉さんは昨日の夜に試作してたんだね」と一郎が言うので、ハナは一郎を見て鼻に皺を寄せて目を瞑った。
「ウメさんと二人で作りました」
どうやら正雄のために作って、しかも前日に試作までしていたと言うことが分かった。一郎はハナに睨まれて、笑いながら部屋を出て行く。
「これを僕のために?」と正雄が聞くと、ハナは「花嫁修行です」と言って、横を向いたが、頬と耳が赤くなっていた。
卵だって高いだろうに、と正雄は思いながら…これを清ではなく自分のために作ってくれたと言うことが素直に嬉しかった。
「どうぞ、召し上がって下さいませ」
ハナは横で食べるのを静かに待っている。
「もったいないな…」と正雄が言う。
黄色いオムレツは艶やかに輝いていた。箸で割ると、中からひき肉と玉ねぎが出てきた。その豪華なおかずを見ると、ハナの気持ちが伝わってくる。それでそわそわしていたのだ、と正雄は思った。大好きなキャラメルにも手をつけずに、英語にも身も入らないほどに。
口に入れると今まで食べたどんなものより、胸に沁みた。貴重な食材を使い、手間をかけて作ったオムレツの味はきっと忘れられないと思った。
「一番、美味しいです」と正雄は言った。
一瞬で華やぐハナの笑顔を見て、もうこれで十分だ、と正雄は思った。
これ以上、受け取ることはできないと。
ただ、今日だけはこの幸せをお互いに感じることにしようと決めた。
日が落ちていくのが遅くなる初夏の夕暮れ。心地いい風が二人の間を通り過ぎた。
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