第22話 友の好きな人
ハナを送った後、正雄が家に帰る手前で清の車が通り過ぎて、少し先で止まった。清が車から降りて来る。
「ハナさんは?」
「あぁ、今、送ったところだ。蕎麦をご馳走して帰った」と言って、リキ車のお金として受け取っていたお金を清に返した。
「蕎麦?」
「晩御飯の予定も無くなったようだし、蕎麦ならさっと食べれるだろう? 追いかけてきたのか?」
「それで見当たらなかったんだな」
「タイミング悪いな。でも今なら家にいるはずだ。ちゃんと家まで送ったから」
「そうか…。悪かった。ありがとう」と清はすぐに車に戻ろうとしたが、足を止めて、正雄の方に振り返る。
「ハナさん…、元気だったか?」
「まぁ…、少し落ち込んではいたけど。大丈夫だ」
「そうか…、何か聞いてないか?」
数秒、お互いの顔を読んでいた気がする。嘘はつかない方が良さそうだと思って、正雄を肩をすくめて息を吐いた。
「キスしたんだって?」と正雄が言うと、清は瞬きもせずに固まった。
しばらく沈黙があったが、正雄が「驚いてただけだよ」と言った。
「…ハナさんは…君にはなんでも話すんだな」
「…いや。様子がおかしいから聞いたんだ。それに…色々ショックなことが重なったんだろう」
そう言われて、正雄に何か言える立場でないと清は思った。それでも正体不明の不安が胸の底で大きくなる。正雄の肩に手を置いた。友の肩を掴んで揺すりそうな自分を何とか抑え込む。
「頼んだよ。彼女は…初めて本気で好きになった人なんだ」
「…分かってる」
清の大切な人だと言うことは十分に分かっている。もうすぐ清は日本を離れる不安でいっぱいだろう、と目の前にいる親友の顔を見た。いいところのお坊ちゃん、でも負けん気の強さで努力も人一倍し、人の上に立っている。それくらい何でも上手くこなしている清が悲しいくらい追い詰められたような顔で頼んでいるのだから…、と正雄は思った。
「帰ってくるまでしっかりお預かりしておくから」と不安で揺れる清の目を見た。
「…ありがたい」と言って、肩に置いていた手を離す。
手が離れたのに、正雄はまだ肩が重い気がした。
そして清は車に乗り込んで、去っていった。正雄はその時の清の目を忘れられない。頭を軽く振って、正雄は家に戻った。
「お帰りなさい」とキヨが玄関まで出てくれる。
「ただいま戻りました」
「お茶はいかがですか?」
「ありがとうございます。ここで待って…持って上がらせてもらいます」と正雄は玄関に腰掛けた。
「あのね…。お友達の婚約者だからといって、本人の気持ちも大切にしなければ…と思うのよ?」とキヨが言う。
「本人?」
「そうよ。ハナさんと…あなたのね」
「まさか」と言って、首を軽く振る。
「まぁ、待ってなさい。お茶を用意します」と言って台所へ消えた。
本人の気持ちを大切にすると言うことはどう言うことだろう、と思う。ハナは自分が婚約者じゃないからこそ、気楽に話しているのだ。もしハナが自分の婚約者だったら、やはり緊張して俯いているだろう、と考えて、そうであれば…と一瞬甘い想いがよぎる。それと同時に今日見た清の顔が浮かんだ。
ずっと良くしてくれていた清を悲しませるつもりはない。家族に恵まれなかった正雄にとって清は唯一心を通し合えるかけがえの無い存在だ。
「お待たせしました。じゃあ…おやすみなさい」とキヨは案外、あっさりと下がっていった。
お盆には小さなおにぎりと、お茶が乗せられている。正雄はそれを持って二階へ上がって行った。
窓から月明かりが差し込んで、部屋は薄青く光っている。机にお盆を乗せると、不意にハナの匂いがした気がした。この部屋にほんの少しの間だけいただけなのに、匂いが残っていたのだろうか。花の匂いのような白粉の匂いのような。
机の上の原稿用紙は白紙のままで、正雄はペンを取った。
『月より綺麗な人が
花の匂いを纏って
満月の夜にここに来ました。』
それだけ書いて、窓の外を眺める。静かな夜に遠くで犬の鳴き声がした。
ハナは寝巻きに着替えて窓の外を眺めた。明るい月は上の方に上がって少し小さくなっている。正雄の部屋で猫を撫でていたのが夢のようだった。もし正雄と結婚できたら、生活はどうなるか分からないけれど、縛られるものも少ないだろう。
大原家での花嫁修行が始まるのも気を重くした。清は仕事だろうし、その間、あの美人の母と顔を合わせていることになるのだろうかとため息をついた。父親が婚約破棄を言い出した時、思わず心が跳ねたような気がした。それなのに、すぐに事態は元に戻ったから、まるで鎖をつけられたような重い気持ちを抱えている。
「結婚…できるのかしら」
(母は花嫁修行で無理だったら帰ってきなさいと言っていたけれど、そんなことができるだろうか。でももしかしたら…ついに大原家の嫁として不可だという烙印を押されるかもしれない)とハナは考えて、少し笑う。
正雄と二人きりでいた部屋を思い出すと、何もなかったのに、ハナは顔が少し熱くなる。黒猫を撫でながら、その頭を撫でている正雄の大きな手とペンだこに触れたいと思っていたことがひどくふしだらで、堕落したような気持ちになった。それでももし触れたらどんな感じだろう、と想像する。熱いのか、硬いのか…。偶然ぶつからないだろうか、と思いながら何往復もしていた黒猫の背中の感触は柔らかくて温かかった。
(あの人に触れたい)
そう思って、ハナはそう思った自分に驚いた。
そしてこんなことで本当に結婚できるのだろうか、と不安に包まれる。
月を見て、正雄も見ているだろうか…と。
ハナはこれが恋なんだと、涙を溢した。
正雄が来る日にハナは何かを作ろうと思って、色々考えた挙句、お小遣いを使って卵を買って、オムレツを作ってみようかと思った。ひき肉と玉ねぎを炒めて、それを卵に包むのだが、なかなか難しい。食材を無駄にはできないので、前の晩に試しに作ってみた。
「ハナ、これは一体、なんだ?」と父親が訝しげに言うので、ハナは澄ました顔で「花嫁修行に西洋料理を作ってみました」と言った。
それで納得したような顔で食べてくれた。家族全員、初めての西洋料理で味が本当にこれがそうなのかは知らないけれど、「美味しい」と言ってくれた。それを聞いて胸を撫で下ろす。
「ウメさんもどうぞ」と台所で忙しくしているウメに声をかける。
オムレツ一切れを小皿に入れて、差し出す。
「お嬢さん、明日、山本さんが来られるんですよねぇ。それで作りなさったんですか?」
ハナは当てられて、恥ずかしくて小さく頷く。
「…どうして…。まぁ…」と小さなオムレツのかけらを受け取った。
「味見してください」
ウメはそれを口に入れて、涙を流した。
「こんなご馳走…初めて食べました。大変、美味しいございます」
「ウメさん、大袈裟よ」とハナは笑うが、ウメは「お嬢さんのお気持ちが…」と言って、涙を拭いた。
「私、多分、花嫁修行で返品される気がしているの。だってあまりにも違いすぎるもの」
「お嬢さん」とウメは驚いた声を上げた。
「だから大丈夫よ」とハナは明るい顔をした。
「そうでしょうかねぇ」
ウメは首を傾げつつ「まぁ、お嬢さん、小さい頃からお転婆でしたからね」と笑った。
「そうそう。私、きっと大丈夫よ」と言って、希望を捨てないことにした。
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