第21話 襲撃


「まだ付き纏うつもりですか?」と未嗣の落ち着いた声がする。


「今日が…最後ですよ」と言って、男が近づいてくる。


 その言葉に体が固まる。隣に未嗣がいるというのにまるで気にならないのか、夕雨の方しか見ていない。


「…ど、どうして?」と夕雨が呟くと…男はポケットから何かを取り出した。


「どうして? いつも僕の前を通り過ぎる時、微笑んでくれただろう? 何も注文してなくても微笑んでくれたってことは、僕が好きなんだよね?」


 何を言っているのか理解できない。微笑んだ記憶もなかった。


「だから、二人きりでゆっくり一度話そう?」


 男が近づいた時、未嗣が手を離して前へ出た。バチバチと音がしてするのと同時に光が走る。恐怖で竦んでいると、軽いスプレーの音がして、


「走って」と突然回れ右をした未嗣に言われる。


 言われるままに走ったけれど、相手が追いかけてくる気配がない。振りむくとなぜか蹲っている。それを未嗣は確認すると、携帯で警察に連絡した。どうやら相手が近づくのを待って、催涙スプレーをかけたらしい。向こうもスタンガンを持っていたようなので、警察に来てもらった時に説明できる、とまで未嗣は思っていたようだった。


「大丈夫?」


「…はい。あの…ありがとうございます」


 しばらくして警察が来て、夕雨も未嗣も事情聴取されることになった。全てが終わるとすっかり遅くなっていた。一度家に連絡していたので、警察署までお母さんが迎えに来てくれている。


「あの…こちらは翻訳家の三条さん。英語を教えてくれてて…それから今日も助けてくれて」と夕雨は簡単に説明した。


「え? あぁ…そうですか。どうもいつもありがとうございます」と頭を下げた。


「あの…」と未嗣は母の方へ声をかける。


「はい?」


「夕雨さんとおつきあいさせて頂きたいんですけど」


「え?」と夕雨も母も同時に聞き返した。


 そして二人で顔を見合わせる。


「おつきあい? それは…あの…本人に…おまかせしますけど…。でも…あの…今日は…連れて帰ってもよろしいでしょうか?」と母は突然のことにしどろもどろに返事をした。


(連れて帰ってもって、どうして三条さんに許可とるの)と思いながら母を見るが、母も動揺しているが分かる。


「はい。一応、ご挨拶をしておかなければ、と思いまして」


「あぁ、それは…その…ご丁寧に」と口をモゴモゴさせながら、「それではまた。失礼します」と言って、夕雨に「ほら、帰るよ」と言う。


 そしてすごい勢いで車のところまで母は歩き出すので、慌てて夕雨も付いて行った。振り返ると、未嗣が軽く手を上げて振った。


(どうしてそんなこと言うの?)と問い詰めたかったが、車に急いで乗らなければ母に怒られそうで急いだ。


 そして車に乗った瞬間、母に詰め寄られた。エンジンをかけるのももどかしいみたいで、母は話しだした。


「どういうこと?」


「どういうことって言われても…私もびっくりして」


「夕雨は気がないの?」


「え?」


「好きじゃないの?」と運転しながら、窓を開ける。


 出口のところで、まだ未嗣が立っていた。


「おやすみなさい」と未嗣が声をかけるので、夕雨も「ありがとうございました。おやすみなさい」と返事をした。


 母も頭だけ下げて、左右を確認すると、道路に出た。


「お母さん、あのね…。三条さんのこと…好きだけど。でも…」


「でも?」


「奥さん亡くしてるし。…それに私は留学もしたいし」


「それだけ?」


 母はそう言うと、前を向いたままだった。


「付き合う付き合わないは夕雨の好きにしていい。でも人生なんてやりたいことを全部するには時間が足りなさすぎるのよ」と言う。


「うん?」


 話の続きを待っていたが、そのまま沈黙が続いて、深夜まで営業しているファミレスに車が入って行った。


「お母さん?」


「コーヒーと…ちょっとデザートでも食べない?」と笑う。


「もう。こんな時間に食べると太るよ」


「こんな時間に外にいるなんてなかなかないでしょ?」


 なぜか楽しそうにしている母が珍しくて、夕雨も諦めることにした。ファミレスに入ると、お父さんに電話してくると言われて、すぐに一人になった。どうして未嗣は突然、あんなことを母に言ったのか、と思うと本当に分からない。

 すぐに母は戻ってきて、深夜なのにも関わらずドリンクバー二人分とパンケーキを注文した。夕雨はアイスにすることにした。


「それで? 付き合いたくないの?」


「そういうわけじゃなくて…。何だかよく分からない人だから」


「よく分からない?」


「だって一目惚れって言うんだよ? この私に? そんなに美人でもないのに」


「可愛いけどねぇ。まぁ…確かに一目惚れを…されるのかは疑問よね」と母は辛辣なことを自然に言った。


「…ほら、だから…。なんとなく…。おかしいなって」


「うん?」


「騙されてるんじゃないかなって」


「ふん。それで、騙されたくないから付き合わないの?」


「…騙されたくはないもん」


「まぁ、ねぇ。ちょっとコーヒー入れてくる。ドリンクバー頼んだし、何かいる?」と母はさっきの動揺が終わったのか、呑気だった。


「お茶でいい」


「お茶の種類もたくさんあるわよ」


 結局、夕雨も行くことになった。確かに種類豊富で、夕雨はアップルティにした。どうして深夜のファミレスでこんな話をすることになったんだろう、と思いながら席に戻る。


「あのね。選択するのは夕雨だとしてね。聞いてね? いい男は確かに存在する。でもそのいい男と知り合う確率はなかなかに低い」


 確かにそうだな、と夕雨は頷く。


「で、そのいい男が自分のことを好きになるのはもっと少ない確率。スーパーレアだと思いなさい」


「スーパーレア?」


「そうです。夕雨にスーパーレアなことが起こってます。あんないい男に一目惚れされるなんて、スーパーレアじゃなければ、なんなの?」


「…そうだけど」


「昔、私の友達に、ブサイクな男に二股されていた子がいてね。何度も忠告しても聞かなかったの。『彼に限って』って。それくらい不細工なんだけど。でももし彼がイケメンだったら『あり得る』ってなってたかもね? って思うの。結局、その子は自分でその場を見るまで信じなかったけど、自分で知ってからは『ブサイクなくせに』って恨み節だったわね」


「? 何が言いたいの?」


「騙されるなら、イケメンにしなさいってこと」


「騙される前提?」と夕雨はため息をついた。


「まぁ、言いすぎたかな。でもね。不細工だから浮気しない。イケメンだから浮気するって言うのはこっち側の勝手なイメージでしょ? もっとちゃんと本人を見なさいって言ってるの。夕雨が相手のこと分からないって言うのなら、しっかり両目を開いて、相手を見て判断しなさい。意外とたまたまイケメンに生まれただけ…なのかもしれないし」と言って笑う。


「たまたまって…」と夕雨は母の言ってることが半分くらいしか分からない。


「それに英語は逃げないでしょ?」


「逃げないって」


「人は関係を続けようと努力しなきゃ、消えちゃうものなのよ。どんなに仲良くても綿菓子みたいに、思い出だけになっちゃうの」


「…付き合った方がいい?」


「それは夕雨が決めなさいよ。でも人生はあなたが思うほど長くない。少しでも好きなら…傷つくことなんて恐れる時間はないってことだけは言っておくわね」


「…うん」


 ちょうどそのタイミングで、アイスとパンケーキが運ばれて来た。ふわふわのパンケーキにはバターとメープルシロップだけのシンプルな飾りだった。母はあまりいろんなものが乗っているより、このシンプルなパンケーキが大好きだった。


「傷ついたって、あなたが選んで好きになったんだもの。きっと素敵な思い出になると思うわ。それに思い出があるから生きていけることもあるしね」


 夕雨は母が言っていることが今はまだ実感できないけれど、少し不安が減った気がする。

 シンプルなパンケーキを一切れもらって口に入れる。美味しくて、笑顔になると、向かい合っている母も微笑んでいた。

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