第18話 夜に響く声


 軽い足音がして階段を登ってくる音がした。


「お邪魔しますよ」と言ってキヨが顔を覗かせる。


 お盆にお茶と海苔がついたおかきがお皿に乗せられていた。


「あら?」と膝の上で丸くなっている黒猫を見て、キヨは驚いた。


「ほら、座り心地がいいのかこのまま寝そうです」と正雄がキヨに言う。


 お茶を二人の近くにそっと置きながら、キヨは穏やかな時間が流れる二人を見比べた。


「何だかお似合いの二人ですね」


「え?」とハナが驚いて声を上げると黒猫は起き上がって、窓枠に登った。


「あら、驚かせてごめんなさいね」とキヨは猫に声をかける。


 そう言うと、黒猫は屋根の上に飛び降りて、またどこかへ去っていった。


「正雄さんは本当にいい方だから…誰かいい人がいないかしら? と思ってるのよ。結婚する気がないのかしら?」とキヨはため息を吐く。


「こんな不安定な職業じゃ…結婚なんてできませんよ」


「私も先生は素敵な人だと思います」とハナが言うと、キヨは嬉しそうに笑った。


「そんなことを軽々しく言わないでください」と正雄が苦虫を噛んだような顔で、でも顔が少し赤くなっていた。


「でもお二人…本当にお似合いですよ」


「だから辞めてください。彼女は僕の親友の婚約者なんですから」


「え? まぁ」とキヨは驚いたように言う。


「でも…お相手の方、とっても素敵な方ですけど。私なんかでは少しお家柄が合わない気がして、気が引けてるんです。それで先生はいつも慰めてくださるんです」


「そりゃあ…長い人生だものねぇ。気楽な方が私はいいと思いますけどねぇ」


「もうキヨさん、何を言ってるんですか。今は生活が厳しい世の中なんですから。彼の家だったら安泰ですよ」


「そうですかねぇ? 正雄さんだって十分だと思いますよ」


「猫に餌やるには十分でしょうがね」と少し拗ねたような口調だったので、ハナはクスクスと笑った。


「ハナさんは正雄さんのこと、嫌いじゃないでしょう?」とキヨが聞く。


「え? 私なんて…先生には…そんな勿体無いです」と顔を赤くして俯いた。


「何言ってるの。こんなに可愛らしいのに、もっと自信をお持ちなさいな」とキヨが言うと、正雄はため息を吐いて


「なんでキヨさんはけしかけるんですか? 面白がってるんですね?」


「あら、やだ。そんなことないわよ。ただお二人がとてもお似合いだと思ったから…」


「そう思うんだったら邪魔しないでください」


「野暮でしたね。お邪魔しました」と言ってキヨは立ち上がって、部屋から出ていった。


 キヨは部屋に入った瞬間から、この二人の気持ちに気づいていた。電灯もつけず、静かな夜に優しい空気が流れていた。言葉を発せずともお互いが気を許して、心憎からぬ思いを抱えていることを。

 正雄があんなに優しい表情で女性を見ているのは初めてじゃないだろうか、と思った。顔立ちのいい正雄に会いにくる女性は数名いたが、いつも迷惑そうな顔で対応していたからだ。

 それからものの五分と経たないうちに二人は降りてきた。


「今からハナさんの家まで送ってきますから。お茶、ご馳走様でした」と言って、お盆をキヨに返す。


「ハナさん、いつでも遊びにいらしてくださいね。正雄さんがいなくてもお話し相手になりますからね」とキヨは言った。


 キヨの気持ちのいい話し方にハナは嬉しくなってお礼を言う。


「またお邪魔します」


「ぜひそうしてくださいな」


「では失礼します」と言って、二人は出ていった。


 その後ろ姿を眺めながらキヨは微笑んだ。二人があまりにも仲良く寄り添っていたからだ。




 すっかり夜が更けていて、こんな時間に男の人と歩くのが初めてで、清と出かけることはあったけれど、車で送ってくれるので外を歩くと言うことはなかった。それでハナは少し嬉しくなって微笑んでいたようだ。


「どうかしましたか?」と正雄に聞かれる。


「いいえ。素敵なお家でしたね、と思い返していました」


「君は大原家に行ってたんでしょう? 比べ物にならないと思いますがね」


「でも私、あのお家が気に入りました。キヨさんも素敵ですし、猫も…それから窓から入る月明かりも…」


 青い夜がうっすらと月明かりで静かに光っている。静かなあの部屋で正雄は小説を書いているのだとハナは想像していた。


「そうですか。…では僕と結婚しますか」


 あまりに普通の話のように言われて、ハナは驚いて正雄を見た。


「いや、僕と結婚しなくたって、あの家に下宿したらいいんですから」とこれもまた普通に話された。


 ハナはまた揶揄われたのだと思って、少し頰を膨らませた。


「下宿なんて…させてもらえません」


「…そうですね。君はなんて言ったって箱入り娘ですから」


「でも…少し不良になりました。こんな時間に歩いて…。それに…」


「キスしたことですか?」


 図星を刺されて、ハナは顔を赤くして俯いた。


「大したことじゃありませんよ。欧米では挨拶代わりというじゃありませんか」と軽く笑われる。


 そうとは言え、ハナは口づけをされた時、清とは結婚をしなければいけないような気持ちになった。


「…不安で…潰されそうです」と小さな声でハナは言った。


「君も僕の恋人みたいに、あちこちでフラフラしたらいいんですよ」と正雄が言う。


 正雄の恋人の話を初めて聞いたから、ハナは驚く。


「革新的な方なのですね」と想像もつかない女性を言った。


 どういった種類の女性かは分からないが、正雄の恋人なのだから相当綺麗なのだろうとハナは思った。思いながら、少しだけ胸が詰まる。


「革新的というか…本能しかないのかもしれません」


「…そんな言い方、ひどいです」


 真面目に怒っているのに、正雄は笑い出す。


「誰だと思ってるんですか?」


「知ってる人ですか?」と目を大きくして訊きかえす。


「鰹姫ですよ」


「鰹?」と言ってから、黒猫のことを言っているのだと分かった。


「彼女しか恋人はいません」


「あら、それでは相当美しいじゃないですか」とハナもやり返した。


「あなたほどではないです」


 その言葉がこの静かな夜にも、ハナの心にも響いた。

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