第17話 夕方の雨
「あの…焦げる…かも」とフライパンの方を見ると、未嗣はようやく手を離して、火を止めてくれた。
「早くひっくり返してください。さらに焦げます」と夕雨は手をハンバーグの種から抜いて慌てて手を洗う。
そしてフライ返しを未嗣に渡そうとするが、未嗣も利き手が肉まみれだった。仕方なく夕雨がフライ返しでひっくり返すとやはりちょっと焼き過ぎ程度には焦げていた。
(もう。どうするんですか)と夕雨は心の中で呟いた。中途半端なハンバーグも…そして突然の告白も。
横を見ると未嗣は黙ってハンバーグの成形に努め始めた。少し俯き加減の姿を見て、夕雨は正直な気持ちを話そうと思った。
「私は三条さんのこと…好きです…。だから寂しいからって言う理由では付き合えません」
成形しているハンバーグが未嗣の手から肉種のボールに落ちて、形を崩した。
「早くやり直してください。私のだけが焼けてしまいますよ」
「…その前に…好きって言ったよね?」と未嗣に見つめられてしまう。
「…はい。だってこんなに優しくしてくれて…好きにならないなんてありえないじゃないですか」と恥ずかしさで声が震える。
「優しいから? だから好きなの?」
「それは…他にも…色々…あり…ますけど。じゃあ、三条さんはどうして私に優しくしてくれたんですか? 同情ですか? 変なこと言う女だから…優しくしたら…寂しさを埋め合わすくらいはできると思いましたか?」
言いながら情けなくなって涙がこぼれた。もうここにいるのが辛くなって、帰ろうと思ってフライ返しを流しに入れる。
「…君に初めて会ってから…なぜか…会いたくなって」
突拍子もないことを言われて、涙が止まる。元奥さんに似ているのだろうか、と思わず首を傾げた。
「それで回数券…二冊も買ったんだ」
「え?」
「…また君に会えたらいいなって思ったんだ」
「私に? どうして?」
すると未嗣は自嘲するように軽く笑って、
「一目惚れした」と言った。
夕雨は最初に会った日のことを思い出していたが、一目惚れされるようなことは何もしていなかった。あの日、雨が降っていて、閉店間際に入ってきた未嗣はアイスコーヒーを頼んで、夕雨はそれを運んだだけだった。
「目が合ったの覚えてない?」
覚えている。
手が触れて、未嗣が謝ってくれた時だった。
夕雨は未嗣が運命の人じゃないか、と少しはしゃいだ気持ちだったことも覚えている。ハンバーグの種がついた手を夕雨はしっかり見た。大きな手…夢の中で何度も見たものだ。でも未嗣は前世の話を信じているのか、いないのか、少し前に、「今を生きた方がいい」と言っていた。
「それで…どうして私のことを好きになったんですか? 目が合っただけで? 奥さんのことは? 奥さんを想ってたんじゃなかったですか?」
「愛してたよ。だから精一杯愛した」
「もう忘れてしまったんですか?」
悲しそうに笑って「忘れてない」と未嗣が言う。
全力で愛して、亡くなった後は季節が何かも分からないような暮らしだった。
「生きていれば…喧嘩の一つもできたかもしれない」
夕雨はその言葉が未嗣の後悔のように思えた。未嗣はハンバーグの成形をまた始める。
「…僕が優しくするから、彼女は治療を頑張って…。痛みだってあっただろうけど…僕には不満をぶつけることもなかった」
大きな手から大きなハンバーグができるのをぼんやり夕雨は見ていた。
「綺麗なままで…終わって、後悔したよ。もっと…彼女が頑張らなくていいような相手にはなれなかったなって」
歪ながら形が整ったようで、未嗣はハンバーグをさっきのフライパンに並べた。
「彼女が亡くなってから…お互いにいい夫婦の演技をしていたような気持ちになってね。色々考えると辛くなった」と言いながら、手を食器用洗剤で洗う。
夕雨は奥さんを知らないから、本当の気持ちはどうか分からない。
「でも…奥さんは未嗣さんに感謝してると思います」
「感謝してくれなくても、生きててくれたらよかった」
未嗣の言葉に、夕雨は自分の浅い考えを知って、唇を噛んだ。それはそうだ。感謝なんて未嗣は望んでいない。
「ごめんなさい」
「謝らないで欲しい。僕は…奥さんが亡くなって、辛い気持ちと恋しい気持ちと…そして少しほっとした気持ちもあったんだから」
不治の病から解放されたのは妻だけでなく、未嗣も同じだった。毎日のお見舞いは次第に疲弊していく。改善されることはないのに、妻の顔を見ては何か希望の言葉を探す。ようやく見つけた言葉は…でも嘘になる。
「旅行に行こう」
「映画を見よう」
「美味しいレストランに食事に行こう」
「行列ができるアイスを持ってきたよ」
嘘の規模が小さくなっていくのも辛かった。でも最後だけは本当に並んでアイスを買った。唇にアイスを少し当てて、でもそれも舐めることができたのかも分からない。それなのに微笑もうとする妻を見るのが苦しい。
妻が亡くなって、お互い嘘をつく苦しみから解放された、と未嗣は思った。
もう結婚は懲り懲りだと…。そう思いながら、一人で暮らしていた。会社で働いていたが、他人といると気を遣われた。女子社員からは同情なのか、誘われることも多くなり、煩わしさが増え、退職した。
そして翻訳というなるべく人に会わない生活を選んだ。
外国語を訳すことに没頭すると、特に小説は自分を忘れることができた。その物語に入り込み、ただひたすらにその世界を翻訳するのだから。そこに自分の苦しみも悲しみも辛さもない。そうしていくうちに少しずつ回復していった。
そうなると環境を変えたくなって、引っ越しをした。新しい場所で誰も知らない街で本当に一人っきりになりたいと思った。
あの日、引っ越しを終えた気楽さもあって、雨の街を歩いていたら、雨が上がって夜になる手前の歩道が光って見えた。いつもなら通り過ぎていたレトロなカフェの前に立った。ステンドグラスの窓からは中がぼんやりとしか見えない。閉店間際だと分かっていたが、不思議とそのカフェの扉を開けてみたくなって入った。扉の奥は静かでゆっくりとした時間が流れていた。
ふとレトロな砂糖ポットを抱えている夕雨の横顔がランプで照らされているのを見た時、どうしようもない気持ちが溢れてきた。寂しいというより恋しいという言葉が胸に迫った。
「いらっしゃいませ」と微笑む夕雨を見て、自分の体に一気に血が駆け巡るような気がした。
これまで自分の心臓が止まっていたんじゃないかと思うくらいに激しく胸を打つ。自分が今まで違う場所にいたような、目が覚めるような思いがした。
「どうしてか、理由は本当に分からない。『運命の人』とマスターと話しているのを聞いて、胸が騒ついて…。一目惚れだと思った」
それでもただお客として通うだけのつもりだったが、困っている様子を見ているとさすがに放っておけなかった、と未嗣は言う。だから朝一時間バイトを代わってくれたり、英語を教えてくれたり…してくれていたのか、と夕雨は思った。
「私は…」
未嗣と仲良くなってから、いつも見ていた夢は記憶に残らなくなっていた。運命の人を探すことも無くなっていた。未嗣は素敵な人だから、好きになったし、一緒にいれるのは素直に嬉しかった。
たださっきから何か思い出すような、記憶が少し首をもたげている。いつも夢で見ていた大きな手。
「…僕も変なこと言うけど、昔から…大切な人とは一緒にいられないような気がずっとしてるんだ。だから…本当はこんなこと言うつもりじゃなかった」と言って、未嗣は前髪をかきあげた。
その大きな手が夕雨に夢を思い出させた。
「先生の手にペンだこが…」と夕雨は誰かの声を呟いて、未嗣の手を見せて欲しいと言った。
差し出された右手の中指にペンだこがあった。
「お勉強…たくさん…」
「これ? これは…変なんだけど、生まれつき、こっちの手だけ変形してて…。別に痛くもなんともないんだけど。小さい頃からそうで。病院にも連れて行かれたらしいんだけどね」
その手は夢の中で何度も出てきた大きな手だった。節くれだった指に一際目立つ中指のペンダコ。毎日字を書いてると…感心している記憶がある。
「私…この手を知ってます」と言うと、懐かしさと同時に涙が溢れた。
「この手?」
「はい。この…手は…」
そこで言葉が行方不明になり、ただ温かい感情だけが湧き上がった。
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