第16話 月夜と黒猫

「今日は…私…これで…」と言って、ハナはゆっくりと立ち上がる。


「ハナさん、本気なのです」


「あの…本日はありがとうございます」と言いながら、唇が触れたところを指で触る。


「では送っていきましょう」


「いいえ。大丈夫です」と言って、ハナは急いで玄関に向かう。


「もう暗くなってますから、危ないです。車を出しますから」と清に言われて、ハナは「お願いですから。今日は…ここで」と目に涙を浮かべて固辞した。


 そうは言っても、もうすっかり日も暮れてしまい、清はこのまま帰すわけにはと思っていると、玄関前に「ごめんください」と声がした。正雄だった。清が慌てて、玄関に向かうと、ハナもその後をついてくる。正雄は着物に袴を着ていて、ちょっと立ち寄ったという感じだった。


「あぁ、来てたの?」と正雄はハナに言うが、ハナは下を向いて小さな声で「こんばんは」とだけ言った。


「何の用だい?」と聞いてる間に、ハナは草履を履いて「それでは失礼します」と言って、出ていった。


「あ」と清が声を上げたが、正雄が本を返しに来たと言って渡すものだから、追いかけることができなかった。


「悪いが、君がハナさんを送ってくれないか?」


「え?」


「これで、リキ車にでもなんでも乗せてくれもていい」とお金を渡される。


「とにかく、彼女を家まで」と急かされて、慌てて表に出た。


 ハナが遠くに見えたので、慌てて追いかける。確かに夜が近づいていて、一人で帰らせるわけにはいかないが、清が送れないと言う理由が分からなかった。正雄の下駄の音がしたのか、ハナは振り返った。


「…一緒に帰りましょう」と正雄は言いながら、ハナが泣いているのを知った。


「先生」


「…そばでも食べて帰りませんか?」


 ハナは首を横に振った。


「仕方ありませんね。じゃあ…」と言って、袂をごそごそとして、何かを取り出した。


 そして握った手をハナの前に突き出す。


「手を出してください」


 言われて、恐る恐る手を出すと、ハナの手に形のつぶれたキャラメルが一つ落ちた。


「お食べなさい」


「え?」と驚いた様子で手のひらのキャラメルを見る。


「頂いたものですけど…。私の弟子にあげようと思っていたものです」


「まぁ。じゃあ…頂けません」とハナはキャラメルを突き返した。


「弟子は一人しかいませんけどね」と言って、キャラメルを摘んで紙をはがした。


 そしてそれをハナの口元に持っていく。


「ほら、口開けて。可愛いお弟子さん」


 ハナは顔を赤くして、正雄の持っているキャラメルに顔を横にした。横にしたけれど、目で見てしまう。それが正雄には可愛くて、笑いながら、もう一度、ハナに手を出すように言った。渋々出した手のひらに裸のキャラメルを置く。


「お食べなさい。ハナさんの泣き顔なんて家族の人が見たら驚くから」


 今度は素直に口に入れた。なんとも言えない甘さが口の中で溶ける。


「清と何かありましたか」


「…」


 キャラメルのせいにして、ハナは答えなかった。清の母に言われたこともショックだが、何より清と口付けをしてしまったことが一番ショックだった。


「口付けでも…されましたか?」


 もう少しで貴重なキャラメルを喉の奥に飲み込みそうになって、ハナは目を白黒させた。そんな様子のハナを少し笑ってから、


「清のこと…嫌いになりましたか?」と正雄が聞いた。


 ハナはなんと答えたらいいのか分からないけれども、涙がまた溢れた。


「困りましたね…。あれほど、僕に惚れないでと言ったのに」と正雄が勝手なことを言うので、ハナは少し驚いたが、いつものからかいだろうと頰を膨らませた。


「惚れられたのだから、仕方がない。そばでもご馳走しましょう」


 確かに夕飯を清と食べる約束をしていたので、ハナはすっかりお腹が空いてはいた。


「ほら、僕の可愛いお弟子さん。今日は色々疲れただろうから、しっかり食べて、ゆっくり寝なさい」


 そう言って、先を歩く。ハナはその後を付いていった。


 気取らない蕎麦屋に入って、正雄が勝手に注文した。ハナは黙って座っていると月見そばが運ばれてきた。


「どうぞ」と言われたものの、なんだか申し訳ないような気がして食べ辛かった。


「そんなに心配なさらないでも、蕎麦くらいはご馳走できますから。…それと今日の着物は素敵ですね」とさらっと正雄が言った。


 清の母にため息つかれた着物だった。


「…ありがとうございます」と言いながら、また涙が滲んできた。


「ハナさんは何を着ても似合いますけど、牡丹の柄は一層美しく見えますね」


「え?」


「女性らしさと可愛らしさが兼ね備わってる花じゃないですか」


 ハナは正雄を見ると、優しく笑いながら


「ハナさんみたいに」と言ってくれた。


 そして食べることを促されたので、ハナはせっかくなのでいただく事にした。一張羅の着物を汚さないようにゆっくり食べる。ふと視線を感じて、正雄を見ると、柔らかい笑顔を浮かべていた。


「先生…。私…洋食も好きですけど…。こうして食べるお蕎麦も大好きです」


「…そうですか」と言って、正雄は視線を逸らした。


 目と鼻を赤くして食べているハナを見て、かわいそうにと思う気持ちと、また別の気持ちが湧き上がってくるのを正雄は気づかないふりをした。


「僕もこうして食べる蕎麦が好きですよ。気楽でいい」


 ハナはそれを聞いて、やっぱり気楽に思われているのだな、と思い、少し残念な気持ちになった。そして、なぜ残念な気持ちになったのかは深く考えるのを辞めた。


「どうか清を嫌いにならないでください」と正雄に言われて、ハナはさっきのことを思い出す。


「嫌いでは…でも」


「あいつなりに大切にはしてるんですけど…。可愛くて仕方がないんでしょう」


 大切にしてくれている、その気持ちはハナにも十分伝わっていた。それでも突然の口づけを思い出すとハナは伏し目がちになる。


「ちょっと申し訳ないですがね。下宿先に寄ってもらってもいいですか? ここから近いんで」


「え?」


「ハナさんは猫…好きですか?」


「猫? 飼ってらっしゃるんですか?」


「いえ。この時間になると僕の部屋に餌欲しさに寄ってくるんです。ちょっとそれだけしたら、送りますので」


 ハナは猫を見てみたい気持ちもあったし、寄ることにした。

 ある日、黒猫が窓際にいて、月が綺麗な夜だったから思わず窓を開けたら、その猫が鳴き声を上げたらしく、ちょうど食べていたうるめを上げたら、毎日来るようになったと言う。


「ハナさん家に行っている時も、律儀に待っていてくれて。いい女房みたいです」と言って正雄は笑った。


「まぁ…。それじゃあ先生も寂しくないですね」


「でも猫ですからね。餌をもらったらどこかへ行ってしまいますよ。もしかしたら違う家でまた何かをもらっているのかもしれない」


 正雄の下宿先は本当にすぐ近くだった。木の板でできた塀に囲まれた小さめの住宅ではあったがきちんと手入れされた玄関前には紫陽花が植えてあった。


「ただいま帰りました」と声をかけると、四十代くらいの女性が出てきた。


「あら、正雄さん。お帰りなさい。…この方は?」とハナを見て驚く。


「僕のお弟子さんですよ。可愛いでしょう?」


「あら、まぁ、お茶でも持っていきましょうか」


「いえ、猫に餌をあげるだけですから、気になさらないでください。こちらはこの家の細君で、キヨさんです」と紹介されて、ハナは慌てて頭を下げる。


「先生にはいつもお世話になっております。入江ハナと申します。少しだけ猫を拝見させて頂きたくて」


「それは、それは。どうぞ、ごゆっくり」と言って、すぐに奥へと消えて行った。


「いい人なんですよ。たまにご飯をくれたりします」と言うと、ハナは明るく笑った。


「それではまるで先生が猫じゃないですか」


 それを聞いた正雄も笑った。


「違わないですねぇ」と言って階段を登る。


 小さな部屋には机と箪笥と部屋の隅に布団が一つ置かれているだけだった。部屋が暗いが、窓から月明かりが綺麗に入り込んでいる。


「ほら」と指差されたところに黒い小さな影が立っていた。


 正雄は箪笥から小さな皿と鰹節を取り出して、そこに鰹節を入れて机に置くと窓を開けた。するっと部屋に入り込んでくる。ハナには目もくれずに鰹節を食べ始めた。黒猫の毛は艶々としていて、目はお月様のように黄色く明るかった。

 ハナはそっと近づいたが、逃げることもなくご飯を食べている。食べ終えるまで横に座ってじっと見ていたら、黒猫はハナの膝の上に降りて丸まった。ハナは嬉しくなって、正雄を見ると、驚いたような顔をしている。


「こいつは食べたら、すぐいなくなるのに、どういう風の吹き回しだ?」と言って、正雄も側に行って腰を下ろした。


「撫でても平気でしょうか?」


「やってみなさい」


 恐る恐る背中を撫でても動かなかった。艶やかで暖かい猫の背中は撫でている方も気持ちよかった。正雄も頭の方を少し撫でる。人差し指にペンだこができていて、節のゴツゴツした大きな手で本当にそっと撫でる。黒猫は気持ちいいのか目を閉じていた。ハナは嬉しくなって、正雄に微笑んだ。正雄はそのハナの笑顔を見て、清が突然、口付けをした気持ちが分かった。


「竹久夢二のような世界だな」と正雄は呟いた。


 月明かりがぼんやりとハナと黒猫の輪郭を縁取っている。夜は静かで通りの音まで聞こえそうだった。

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