第13話 優しい理由

 未嗣に英語を教えてもらい、夕食を作る。毎日ではないけれど、週に三、四日通うことになった。一緒に買い物をする時もある。ご飯を食べて勉強を終わるとすぐに駅まで送ってくれる。


「じゃあ、気をつけて」


「おやすみなさい」


 このところ、不思議と目覚めが良かった。そして夢は見ているのだろうけれど、少しも思い出せない。あのカフェで毎日働いているうちに、だんだん違和感が薄れ、日常に馴染んできているのかもしれない。


 バイトも順調で、あの日から小川は朝に顔を出してテイクアウト用にしているモーニングを取りに来てくれる。


「夕雨ちゃん、おはよう。あれから大丈夫? あいつ会社休んでてさ」


「ありがとうございます。あれからは何もないです。休まれてるんですか?」


「そうなんだよ…。連絡も取れなくて。まいったな」と言いながら出て行った。


 自分のせいだろうか…と思いながら、夕雨は軽く首を振る。

 何を言っても通じない怖さから解放されて、ほっとしたことの方が今は大きかった。


 未嗣は昼過ぎに来て、窓際でしばらくぼんやりして帰っていく。たまに夕雨が入れた練習用のコーヒーをおかわりしてくれる。


「夕雨ちゃん、上手くなったねぇ。そろそろお金払おうか」と未嗣が言ってくれた。


「本当ですか? マスター今の聞きました?」と言って、カウンターに戻った。


「ふふふ。相変わらず優しいなぁ…」と笑いつつも、まだマスターは納得していないようだった。


「もう」と顔を膨らませると、マスターがコーヒーゼリーを出してくれた。


「ほら、おやつあげるから」


 今は未嗣しか客がいないので、カウンターの端に座って休憩させてもらった。


「それ…美味しそうだね」と未嗣さんがレジに来て言う。


「あ、お会計ですか? ありがとうございます」と言って、夕雨は立ち上がった。


 コーヒーだけだったので、夕雨がレジ横のチケットを切れば、そのまま店を出るだけなのだが


「やっぱりそれ、食べたいな」と言って、カウンターに座った。


「はい、ありがとうございます」と言って、マスターは冷蔵庫からコーヒーゼリーを取り出す。


 そして絞られたホイップがコーヒーゼリーの上で少し震えながら、カウンターに置かれた。


「一緒に食べよう」と手招きされたので、隣の席に夕雨も移った。


「仲良しさんですねぇ」とマスターがわざと言う。


「彼氏ですからね」と未嗣が冗談を言うが、夕雨は少し胸が痛くなってコーヒーゼリーを口に入れた。


 甘い苦さが口に広がる。


「その後、どう?」と未嗣に聞かれた。


 そう言えば、その話はしてなかったな、と思って、あの男は現在行方不明だと伝えた。


「行方不明?」


「はい。会社も来なくなったそうです」


「ふーん」とマスターも唸る。


「帰り道は気をつけないと…」と未嗣は言った。


 それでいつも駅まで送ってくれていたのか、と夕雨は思った。


「…はい。でも女の子って損ですよね? 愛想振りまけば、勘違いされて…。愛想なかったら、無愛想だって言われて」と言ってから、マスターにも、未嗣にも分かる訳ないか、と肩をすくめた。


「ごめんね」

「ごめん」と二人に同時に謝られた。


「別に二人は悪くないです」と言って夕雨はまたコーヒーゼリーを食べた。


「ところで三条さんは結婚しないの?」とマスターが聞いた。


 内心気になっていたので、夕雨はマスターに感謝した。


「結婚してましたけど…。もう怖くてできません」


「怖くて?」と思わず夕雨が聞きかえしてしまった。

 

「…亡くなったんだ」


 時間が止まった気がする。


「もう六年にもなるけどね」


 それ以上は何も聞かなくなった。思いがけず聞いた話で夕雨はいつも窓際でぼんやりしている理由が分かった気がした。


「ごめんね。変なこと聞いて」とマスターが謝った。


「いえ。まぁ、いい年だから不思議に思われるよね」と未嗣は笑う。


「ごめんなさい。…立ち入ったこと」と夕雨は言おうとして、涙が溢れた。


「ううん。分かってて…結婚したから」と言って、話してくれた。


 大学で知り合った彼女は元々、病気を抱えていた。それなのに明るく過ごしていたから、そのことに気づかずに未嗣は惹かれた。

 付き合おうと言ったら、病気を理由に断られたけど、未嗣は諦めなかった。

 彼女が余命宣告をされた日に未嗣はプロポーズをした。


『一番悪いことと、一番いいことが一度に来た』と彼女が泣き笑いしたことを思い出す。


「かけがえのない時間だった。たったの一度も喧嘩もしなかったんだ。だから…後の人生はおまけで生きてる」


 夕雨は未嗣の優しさの理由もわかった気がした。

 どこか諦めているからこそ、人に優しくなれるのかもしれない。


「幸せだったからね」と言って、夕雨の頭を軽く撫でてくれた。


 おまけの人生だから、夕雨に英語を教えてくれているのかもしれない、となぜか納得した。

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