第12話 カステラの奥
ハナは正雄に教えてもらうと、分かりやすく感じた。清だと緊張してしまって、頭に入ってこないことも多かった。それに正雄は優しい声でゆっくりと教えてくれる。お陰で学校では英語の成績が伸びた。
正雄は小説を書くと言って、仕事を辞めたものの、なかなか食べていけないので、ハナに英語を教えると言うことで家庭教師代を清が渡してくれていた。それに翻訳などの仕事もしていて、正直、小説を書く時間があまりなかった。
「先生、小説をお書きになってるって聞いたんですけど」とハナは勉強がひと段落ついた時に聞いた。
「あぁ、この所は書けていませんが」
「出来たら、読んでみたいです」
「君に読ませるような話じゃありません」と正雄は断った。
「どうしてですか?」と大きな目を輝かせて見るハナを見て、正雄は面倒臭そうに「それは男女の性愛を書いているからです」と答えた。
見る見るうちにハナの顔が赤くなったのを見て、軽く笑った。笑われたのがショックなようでますます顔を赤くして今度は怒り始めた。
「子供扱いしないでください」
「では読んでみますか?」と聞くと、慌てて首を横に振った。
「何も官能小説を書いてるわけじゃないです」
そう言うと、小さく口をぱくぱくさせて言葉が出ないようだった。その様子が金魚のようで、そして髪に結われたリボンが風に揺れて、本当に可愛らしかった。
「先生は…私を教えるのが嫌なのですか?」
突然、そんなことを言われて正雄は驚いた。確かに面倒臭いとは思うが、別に嫌だと思ったことはなかった。
「どうしてそんなこと言うんですか?」
「お勉強の時以外は…、少し意地悪な気が致します」と横を向いた。
子供っぽい仕草だけれど、なんとも言えない愛らしさがあった。正雄が何か言おうとした時、縁側を一郎が走って来た。
「正雄兄さん、来てたんですね」
「こら。一郎、走ってはだめです」とハナは言うけれど、一郎は正雄の前に躍り出て正座する。
「今日は将棋をお相手させてください」
その言い方に正雄は苦笑いしながら、頷いた。
「そうですね。ではお相手して頂きましょう。ハナさんは休憩なさってください」
「もう…。一郎の将棋相手に来て下さってるわけじゃないのよ」と言いながら、ハナは台所に二人のおやつを用意しに向かった。
みずやに入れてあるカステラを一切れずつお皿に乗せて運ぶ。本当は二切れくらい乗せたいものだけれど、こう物価が上昇してはお菓子は満足に買えなかった。正雄と一郎の分だけ用意して、お茶淹れて戻った。
日当たりのいい縁側で将棋を二人で指している。横にそっと置いて、ハナはまた台所に戻った。
ウメさんが正雄について男前だわぁ、と母と話していた。
「この間ね、私が買い物から帰る時、ちょうどこちらに向かうのに行き当たりまして…。荷物を持ってくださって…なんて気持ちのいい方なんでしょうね。お嬢さまが決まってなければ、ぜひにと思うようなお方ですよ。残念です」
「ウメさん、そんなこと言わないの…」と言って母はハナを見た。
「私の縁談がなければ山本様が家に来ることもなかったんですから」とハナはウメさんの様子がおかしくて笑った。
「そりゃ、そうですけどね」とウメさんは買い物籠から野菜を取り出す。
正雄にせめて晩御飯でも食べてもらおうと、ウメさんは張り切っていた。大したもてなしができないのに、正雄は何を食べても美味しいと言ってくれて、ウメさんとしても作り甲斐があるという。
「婿養子にきてくださったらいいのに。そしたらお嬢さんもずっとこの家で暮らせるのに」とぶつぶつ言いながら、野菜を洗い始めた。
「一郎は? また相手してもらってるの?」
「はい。今日は将棋だそうです」
すっかり入江家に馴染んでしまった正雄だったが、彼自身も初めて家庭の温かさをこの家で知った。
しばらくしておやつのお皿を下げようとしたら、正雄の皿は手付かずだった。
「…カステラはお嫌いですか?」とハナが聞くと、
「ウメさんが美味しいご飯を作ってくださるので、お腹空かせたかったんです。よかったらハナさんが食べてください」と正雄はハナの方に皿を寄せた。
「まぁ…」と言ってお皿を受け取った。
「乾いてしまったから、早くお食べなさい」と急かされる。
「正雄兄さん、王手ですよ」
「まいったな…」
二人が将棋をしている横でハナはカステラを口にした。甘くて砂糖の優しい匂いが口に広がった。
すると、突然、二人に笑われた。
「姉さんは本当に甘いものが好きなんだから」と一郎にまで指摘される。
どうやら顔に出ていたようで、恥ずかしくなる。台所に持って行って食べることにしようと腰を上げた。
半分切って、ウメさんにもあげようと思っていると、
「ゆっくりここでお食べなさい」と正雄に言われた。
「ここでは喉を通りません」と言って、そのまま逃げた。
食べる量は半分になったが、ウメさんと仲良く食べた方が気持ちも楽に食べる事ができた。
「本当に良いお方で」とウメさんがカステラを食べながら言う。
「そうかしら?」とハナは笑われたので、少し機嫌が良くない。
でも確かにカステラを残してくれた優しさがハナの口の中に残った。
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