第11話 偽装彼氏
朝のモーニングタイムは自分にとってエクササイズだと思うことにして、夕雨は配達に向かう。急いで来て、走って戻る夕雨に声をかける社員は少なくなった。
喫茶店に戻ると「気合入ってるねぇ」と常連さんに言われたが、すぐに次に配達に出かけなければいけなかった。
「これ、小川さんところ」と言って、すでに用意されたものを受け取った。
そしてまた会社に戻る。小川さんのところは二階なので階段で上がった。
「おはようございます」と言って、小川さんの机に向かった。
その隣に座っていた人が
「夕雨ちゃん、この間さ、夕方に近くのマンションに入っていかなかった?」と話しかけてきた。
お小遣いあげると言っていた人だった。
「え?」
「家?」
「違います」と言って、急いで小川さんにチケットをもらった。
「違うって…」と話しかけてきたが、無視をすることにして、チケットをもらうと「失礼しました」と言って走って戻ってきた。
見られてた…と言うことと、なんだかそれについて話しかけてきたのが気持ち悪くて心臓が激しく打つ。
「大丈夫?」と田村さんに心配されるほど、顔色が悪かったのかも知れない。
「あ、大丈夫です」と言って、また配達に出かけた。
九時を過ぎると、しばらくすると店はのんびりする。近所に住むご隠居さんたちがモーニングを食べにやってくる。ようやく落ち着いて、仕事ができる時間だ。田村さんが帰った後、テーブルを拭いたりしていると、マスターが「大丈夫だった?」と聞いてきた。
「あ…はい」と言ったものの、怖さが蘇ってきて、少し震えた。
「夕雨ちゃんにやめられたら困るし…、配達はもう辞めようか?」とマスターが言い出したので、夕雨は慌てた。
「そんな…だったら私が辞めます」
「そしたら田村さんだけになるし、どっちみち配達はできなくなるよ」
そんな話をしている時に、未嗣が入ってきた。
「いらっしゃいませ」とマスターが言う。
「おはようございます。ホットモーニング…バタートーストでお願いします」と言って、いつもの窓際に座る。
「…かしこまりました」とマスターは言って、すぐにトーストをオーブントースターの中に入れた。
「あの…配達、頑張ります」
「いや、そうは言ってもねぇ。変なやつも多いし」
「…でも」
そう言っていると、未嗣がレジ横に置いてある新聞を取りに来て、こっちを見た。
「配達、明日、僕が行きましょうか?」
「え? でも…」と夕雨は驚いた。
「嫌なこと言う人がいるんだったら、ちょっと見に行ってみようかな。僕にもお小遣いくれるって言うかな?」
「そんなこと、言われたの?」とマスターが驚いて言った。
「前にですけど」
「時給はいくらですか? 明日、一時間だけ働こうかな」と未嗣は笑った。
「とりあえず、明日だけでも」とマスターも乗り気だ。
「じゃあ、私は一時間遅く来ますね」
「うん。そうしてくれる?」となって、未嗣は翌日、アルバイトをすることになった。
一時間分、お給料が減るのが少しだけ悲しくなったけれど、ともかく気持ち的には楽になった。
そして翌日、配達が終わる時間に行くと、田村さんが嬉しそうにカウンターを拭いていた。
「三条さん、本当に格好いいよね」と夕雨に耳打ちしてきた。
「うん」と返事をする。
「あー、大学行きたくなくなる」と言いながら、エプロンを外した。
配達が終わって、未嗣もカフェに戻ってきた。
「なかなかの重労働だねぇ。若くないからくたくただよ」と言いながら未嗣もエプロンを外した。ちょうど九時になっていた。
「じゃあ、失礼します」と言って、田村さんは未嗣の方を見た。
「お疲れ様」とみんなが言っても、出て行こうとしない。
「疲れたので、レモンスカッシュください」とマスターに未嗣が注文するのを見て、少し肩を落として出ていった。
どうやら一緒に店を出るつもりだったみたいだ。
「お疲れ、ありがとう」と言って、さくらんぼが乗ったレモンスカッシュをカウンターに置く。
「ありがとうございます」と夕雨もお礼を言った。
「明日からはきっと大丈夫だと思うよ」
「え?」
「何かしたの?」とマスターが言う。
「配達に行ったら、みんなに夕雨ちゃんは? って聞かれたから、全員に夕雨ちゃんがまだ寝てたので、僕が代わりに来ましたって言ったから。それでどう言う関係か聞かれたので、付き合ってますって言っておいたからね」
マスターも夕雨も驚いて口が開いたが、声も出なかった。
「…あれ? まずかった?」と未嗣がちょっと困ったように聞く。
この場に田村さんがいなくてよかった、とこっそり夕雨は思った。
「まぁ、これであからさまに何か言うことはないかな…」とマスターも言う。
彼氏がいると誤解されても夕雨は変なことを言われるよりはマシかと思って、「ですよね」と言っておいた。
レモンスカッシュを飲むと、未嗣はすぐに帰っていった。
「いい人だねぇ」とマスターが言う。
夕雨のためにたった一日だけ代わりに配達してくれたが、そんな人はなかなかいないだろうと夕雨も思った。
「本当に…」
そして夕方になるまで働いて、店を出て携帯を見ると、未嗣から連絡がきていた。
「今日は豚肉を買ったのでトンカツが食べたいです」と一言書かれていた。
(トンカツ。いきなりハードル高いなぁ)と思いながら、作り方を検索する。肉以外の材料はあるのだろうか、と思って電話してみた。
材料はほぼ持っていないから、今からスーパーに行くと言うので、マンションの下で待ち合わせて、一緒に買いに行くことになった。未嗣のマンションの下に行く手前で肩を掴まれた。振り返ると、あの小川さんの席の隣の人が立っていた。
「今、帰り?」
怖くて声が出なかった。
「彼氏いたんだ?」
「あの…」
「ひどいなぁ」
肩が掴まれたままなので、動けない。
「思わせぶりな態度とってたくせに。誰にもそんな態度取ってんの? お金欲しさに? パパ活とかしてるの?」
言われていることがさっぱり分からない。だからこそ恐怖を感じる。
「思わせぶり…って…何も…」
「え? いつも僕に笑顔向けてたでしょ」
そんな記憶はなかった。ただ愛想は良くしていたかも知れない。
「あれ、好きってことでしょ? 嫌いなやつに笑顔なんてしないもんね。それとも誰にでもあんなことするの?」
何を話しても通じなさそうだった。怖くて涙が溢れた。すると後ろから未嗣が声をかけた。
「あの…彼女だって言いましたよね?」
「え?」と男は驚いて、肩から手が離された。
夕雨と男の間に入って、「何してるんですか? 警察呼びますけど」と言って携帯を出した。
「おい、お前何やってんだよ」と今度は違うところから声がする。
後ろから走ってきた小川さんが男の肩を掴んだ。
「いや、あの…。ちょっと話してただけです」と言って、小川さんの手を振り解いて、無理矢理帰っていった。
「大丈夫?」と小川さんにも心配される。
「あの…私…そんなに愛想振り撒いてましたか?」
「え? あいつ、なんか言ってた? もしかして…付き纏われた?」と小川さんが言うので、夕雨は頷いた。
未嗣が夕雨の肩を抱いて「彼女のこと心配で、今朝は配達を変わったんです」と言う。
「あぁ、そっか。わかった。ちょっと会社にも言うわ。あいつ、仕事でもトラブル抱えてるから。ごめん。悪かった。明日からモーニングテイクアウト用に作っといて。俺、立ち寄って受け取るから」と言ってくれる。
「ありがとございます」と夕雨は頭を下げた。
小川さんを見送ると、未嗣は肩から手を離す。
「本当に大丈夫?」
「…はい。でも怖かったです。何言ってるのか分からなくて」
安心したら、足が震えてきた。
「とりあえず、家で休んで。買い物は一人で行けるから」と言って、未嗣のマンションに戻ることにする。
ソファに座っていると、温かいミルクティを入れてくれた。
「貰い物なんだけど…僕は紅茶が飲まないから」と言って出してくれる。
「ごめんなさい」と言いながら両手で抱えた。
飲むと体が温まって、少し落ち着いた。
「また謝る。君は悪くないんだから」
「…そうですか?」
「そうだよ。買い物行ってくるね。…もし作れないなら、何か惣菜でも買ってこようか?」
「…そんな、それだったら私、レッスン代をお支払いしないと」
「そっか」
「あの…落ち着いてきたので、一緒に買いに行きませんか?」
「え? 大丈夫ならそれでいいけど」
「もう大丈夫です」と言って、立ち上がった。
少しくらっとしたが、夕雨はなんとか踏ん張った。目の前に未嗣の手が差し出されていた。
「よかったら、捕まって」
大きな手は温かかった。
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