第10話 春の午後
清はいよいよ忙しくなり、ハナに会う日が少なくなっていた。その代わり正雄がハナの家に来て英語を教えてくれる。休憩時間には弟の一郎と遊んでくれて、すっかり入江家に馴染んでいた。
でも初日にハナがお茶を出した後、台所の母に呼ばれて正雄に対して注意を受けた。
「分かってますか? 山本様は大原様の大切なお友達です」
「はい。お母様。お菓子は羊羹ではだめでしたでしょうか?」
「ハナ…。お菓子の話をしているんじゃありません」
「ではお茶でしょうか」とハナが言うと、母は深いため息をついた。
そして母は正雄がいかに優しく男前だからといって「節度を持って付き合わなくてはいけません」とハナに言った。
それでようやくハナは母が何を言おうとしているか理解して、顔を赤くした。
「あなたはそういうところが駄目なのです。もっと背筋をきちっと伸ばして…。ぼんやりしすぎているので母は心配です。それでは大原様に愛想を尽かされます」とお小言がはじまった時に、母の後ろに正雄がお盆にお茶碗をもって下げに来た。
「あの…お母様」とそれを言おうとしていたが、小言は止まらず「いいですか? 大原様が心が広いから受け入れてくれているだけで、あなたは妻になる女性としての自覚足りなさ過ぎるようです」と言い出した。
「…すみません」と正雄が言い出しにくそうに声をかけた。
母が驚いて、振り返ったので、ハナは笑いを必死で噛み殺した。
「そろそろ勉強を…と思いまして。茶碗を割っては申し訳ないので持って参りました」
「まぁ…そんな。すぐに行きましたのに」と母は言ったが、小言はすぐには終わらないのが常だった。
正雄はわざとらしく二人と見比べて驚いたような顔で言う。
「ハナさんはお母様にそっくりでお美しいですね。こうして二人並んでいたらまるで姉妹のようです。そんな美しい彼女に彼は夢中でして…全くそうでなかったら僕が英語を教えにくるなんてことはありませんから」と母に言った。
母もハナもそんなストレートな言い方に思わず顔が赤くなった。そして毒気を抜かれた母は正雄からお盆を受け取って、黙って流しの方へ持っていった。
「では勉強を始めましょう」と正雄は言って歩き出す。
「はい」と言って、慌てて後を追った。
縁側が見える書斎で襖は開けられたまま、机に向かった。
「しかしお母様は少々厳しいように思いますけど」と正雄は教科書を開けながら言った。
「大原様から縁談の話が来た時から…です。それまでは割とのんびり過ごしていたんですけど…、きっと母は不安なんだと思います。私もそうですけど。私が大原様と釣り合うように、と必死なんだと思うんです。あちらのお家で私がちゃんとできるか心配してくださっているんです」と入江家が突然の婚約に不安を覚えていることを言った。
「…そうですか。まぁ、仕方ありませんよね」
「母も私がこんなに早く結婚するとは思っていなかったようで、慌てて家事を仕込まれております」
「英語に…家事に…大変ですね」
「えぇ。でも…私も母も少し寂しくて…お小言が増えても一緒にいたいと思ってしまいます」と縁側から見える小さな庭を眺めた。
小さな庭で母と遊んだ思い出が蘇る。この家で大切に育てられた時間は思ったより短く思えた。
「大原の家は女中さんも多いので家事はそこまで大変じゃなさそうですけどね」
「…そうですか。でもやはり…生活が違いすぎて戸惑うことも多いです。それに…どうして私なんかと…。大原様だったらもっと素敵なお嬢様の方が釣り合いが取れると思いまして…」と思わず本音を漏らしてしまった。
「君は本当の彼を見ていない気がします。君の不安が作り上げた彼を見ている気がしますよ。彼は付き合いやすい男です。僕にだって分け隔てなく付き合ってくれるんですから」
その意味がハナはわからなかったが、正雄は二号さんの子供で、山本家に長男がなかなか生まれなかったので、小学校の頃に母親から引き離され、長男として引き取られていた。中学校に入った頃、本妻に男子が生まれて、父の弟の家に養子になるという複雑な家庭で暮らしていた。その家には長男がいたが、病弱だったということで、後継のスペアのような形で育てられていたらしい。長男も成長につれ、健康的になり、正雄は気楽な立場になったものの、誰からも気にされることのない環境だった。
友人も少ない中で、高等学校の頃に声をかけてきたのが大原清だった。一目で育ちの良さそうな品のある清だったが、その実、面白い男で、夜には寮を抜け出して、二人で料亭にも出かけ、綺麗な芸者さんを呼んで、一晩中遊んだりもした。
「ごめんなさい。こんなことを口にしてしまって」
「いいんですよ。謝ることじゃありません。でも一緒に長くいた男として思いますけど…。彼は本当にあなたに惚れているんだと分かりますけどね」
整った顔立ち、洗練された立ち振る舞い、女性が放っておくはずはなかった。でも清がこんなに性急にことを進めようとしているのを見るのは初めてで、いつも女性とデートはしていたが、その気がないのかのらりくらりかわしていたと言うのに…。
「そうですか。ではそう信じることにします」とハナは言って、教科書を読み始めた。
まだ横顔に幼さが残っているハナが背筋を伸ばして、結婚相手のために一生懸命勉強をしている。確かに心を揺さぶられるところがあった。
新聞記者として働いていた時に、会社宛に清からの電話があった。仕事が終わったら食事でもしようと誘われて、その日は疲れていたが、腹も減っていたので出かけることにした。
カフェに着いた瞬間、手を振られた。席に着くと、何やら落ち着かない様子で話し始めた。
『一目惚れなんてするとは思わなかったよ』と清が慌てたように正雄に言った。
『一目惚れ? 誰? カフェの女給さんか? 新町の芸者さんか?』
『いや、女学生で…。すれ違っただけなんだけど。ハナさんって、友達が呼んでたから』と早口でそう説明する。
『…それでどこに惹かれたというんだ?』
『それが、明るい笑顔で通り過ぎたんだ』
正雄は呆れた。女学生と言えば箸が転げても笑う生き物だというのに、とため息をついた。
『それで? でも許嫁がいるかも知れないだろう?』
『彼女の父は警察官で士族なんだ。結婚を申し込んでもいいだろうか?』
『はぁ? もう調べたのか?』と驚いて、今度はため息も出なかった。
『つてを頼って縁談を…と考えているのだが、その前に君にも一度見てもらいたい』と言われて、男二人で、のこのこと女学校前でうろうろしたこともある。
仕事を休んでまでの計画だったのに、学校から出てきたハナを見た時の清は直立不動で動かなくなってしまった。友達と楽しげにおしゃべりをしながら歩いている。こっちに向かってくるので、ずっと立っているのも不審な気がするので、清に注意した。
『おい、不自然すぎるだろう』と小声で言ったが、今度は右手と右足を同時に動かす始末だ。
いつもあんなにスマートな立ち振る舞いができるというのに、この様子には正雄にも可笑しくなった。その横をハナが通りすぎる。ハナが一瞬だけ、こっちを見たが、そのまま笑いながら去っていった。その瞬間がスローモーションのように見えた。
肝心の清はハナを見ることもできないまま、不自然に歩き続けている。
『確かに可愛らしいお嬢さんだったよ』と確認した感想を伝えたが、清はそれすら聞こえないようだったので、なんとか引っ張ってカフェに連れて行った。
『そうか。君もそう思うなら、すぐにでも申し込もうと思う』と席についた途端、そんなことを言う清がおかしくて正雄は吹き出した。
『それじゃあ、乾杯しようじゃないか』と正雄はビールを頼んで、清を乾杯した。
『相変わらず可愛らしかった』と清は言ったが、少しも見ていない気がした。
『仕事休んだ甲斐はあったな』と茶化して言ったが、何も言わずに頷く清に驚いた。
運ばれたビールを飲んで、ようやく一息ついたのか
『来年は仕事でイギリスにしばらく行かなかければいけない…。本当は結婚して連れて行きたいところだけれど…。その間、君にハナさんを頼めないだろうか』と言った。
『頼むも何も…。君はまだ結婚だって取り付けていないじゃないか』
『必ず、取り付けて見せるから』
そんなにうまくいくかはわからないので、その時は適当に頷いていた。
そのハナが今、自分の隣で英文を読んでいる。不思議な気持ちだった。あの時、一瞬、すれ違ったことをハナは覚えていないだろう。
「先生?」
「はい。とても良い声です」
「もう、それは英語とは関係ないじゃないですか」とハナが少し怒ったように言う。
「声は大事ですよ。相手に伝わるように話すことは大切ですから。それでは読んだところを和訳して行きましょう」
そう言うと生真面目に一文、一文、和訳を始めた。中庭に暖かな日差しが溢れる穏やかな春の午後だった。
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