第9話 好きになる理由
どうしてなのか分からないが涙が後から後から溢れてくる。目の前にステーキが置かれているのに、フォークを手にできなくなってしまった。
「ごめんなさい」と夕雨は泣きながら謝った。
未嗣が音楽を止めて、ティッシュの箱を渡してくれる。それで涙を拭いて、深呼吸をした。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です…。どうしてか…最近、調子がおかしくて」
「おかしい?」
「多分…夢で見てるからかも知れませんが。あのカフェに入った時も、たまらなく懐かしい気持ちが溢れてきて。それからさっきの曲も…懐かしさだけじゃなくて、悲しさや…恋しさ…そんな気持ちが全部混ざって切なくなるような…。でも昔はこんなことなかったから…確かに疲れてるのかも知れません」
「だとしたら働きすぎだよね」
そうだろうか、と夕雨は首を傾げた。突然、処理できない感情が湧き起こって、自分でも驚くような行動をとってしまう。未嗣が冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを出して、コップに注いでくれた。
「前に運命の人って話してたよね。それも夢で見たの?」
「…夢です。私…約束してて」
「約束って?」
「それが日にちが過ぎるごとに記憶が薄れてて…今では朧げになっているんですけど」
夢の中で大好きだった人ともう一度会う約束をしたと話をした。
「じゃあ、その人とはお別れしたということなのかな?」と未嗣が訊く。
「お別れ…したんだと思います。私少し考えたんですけど。もっと変な話しても大丈夫ですか?」
「どうぞ」と言って、ワインにも手をつけず夕雨の話を聞いてくれる。
「前世の記憶かなって思ってるんです」と口にするとものすごく薄くて気持ち悪い言葉になった。
未嗣を見ると、やはり薄笑いしていた。夕雨はその反応が当然だと思いながらもショックを受ける。
「じゃあ、君は前世の彼だったという理由で人を好きになるの?」
「え?」
「君は君じゃないの?」
夕雨はそう言われて、「確かに…」と思った。
「前世の人に会えて、その人だって分かったとして、それで君が初めて会った人を好きになれるのかな?」
「…それは分かりませんけど」
「そんなこと気にせず、好きに恋したりして生きていったらいいんじゃないかな」
「…そう…ですね」と言いながらも、どこか釈然としない思いが残った。
「納得できない?」
「いえ…。でも…私にもどうしてこんなことになるのか分からなくて…。今日みたいに急に泣いたりなんか…そんなこと初めてで」と言いながら、夕雨は冷たい水を飲んだ。
「そうか。それは不安にもなるよね。じゃあ、納得いくまで調べてみたら? 君の話から想像すると…大正時代以降の歴史を調べてみて、何か引っかかることがあれば…手がかりになるかも知れない」
「大正時代…以降?」
「明治時代にさっきの歌はなかったからね」と未嗣はスマホを見て言う。
「…調べてみます」
「さあ、せっかくのステーキだから食べてしまおう。調べるのはその後にしよう」
「冷めてしまったかも…ごめんなさい」と夕雨が謝ると、未嗣は「そんなに謝らなくてもいいよ」と言った。
そんなに謝ってただろうか、と夕雨はその言葉を聞いてまた不思議に思った。冷めたステーキだったが高級肉だったおかげで柔らかくとても美味しく食べることができた。美味しいお肉を食べれて嬉しくなった夕雨はふと未嗣を見ると、ワインを飲みながら、優しい笑顔を向けていた。
「もし僕が君の運命の人だったら…好きになってくれるのかな?」
不意に言われた冗談に夕雨は何も言えなくなった。
うまく冗談で返さないと…と思っているうちに「ほら…。難しいことでしょう?」と未嗣から言われてしまった。
「ですね…。でも未嗣さんは素敵だから、前世なんかじゃなくても…きっと誰からも好かれると思います」と言った瞬間、また涙が溢れそうになって慌ててティッシュで目を押さえた。
「ありがとう」
そう言われて、なぜかものすごく安心したような気持ちになった。
「ごめんなさい。やっぱり疲れてるんだと思います。配達で忙しいのもあったし」
「配達、ごめんね」
「あ、あの時は落ち着いてたところで。隣のビルの会社の人たちが朝はモーニングを頼むので…。でもそれだけだったらいいんですけど、変なこと言われたりするのが疲れちゃうんです」
「セクハラ?」
「デートの誘いとか。今日はお小遣いあげるとか言われてしまいました」
「…ひどいね」
「そういうの笑顔でかわせているって思ってたんですけど、でもちょっとダメージ受けてたのかも」
しばらく無言だったが、未嗣が優しい声をかける。
「…英語、教えようか?」
「え?」
「留学するにしても…ある程度はやっておいた方がいいし」
「あ、でも…レッスン代とか」
「いいよ。ご飯、作ってくれたら。でもこれもセクハラになるかな?」
「え? あ、いえ。すごく嬉しいです。本当にいいんですか?」
「いいよ。肉屋で肉買っておくから。昨日みたいに忙しい時は無理だけどね」
未嗣と連絡先を交換することになった。
「そうだ。英語の練習を兼ねて、見た夢を英訳して持ってきて」
「分かりました。もし覚えてなかったら…、会社の人に言われたことを書いてきますね」と言うと、未嗣は笑った。
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