第8話 いのち短し


 今日は清の英語のレッスンがあるというので急いで、学校から出ようとした時、憧れの上級生の櫻子先輩から声をかけられた。


「櫻子さま。ご機嫌麗しゅうございます」と言って、ハナは駆け寄った。

 

 相変わらず綺麗で、いつも優しく微笑む姿にハナは憧れていた。


「ハナさん…。ご婚約おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「私も急だけれど結婚が決まったの。遠いけど神戸の方に行くのよ」


「まぁ、おめでとうございます」


 櫻子先輩の相手だからさぞ素敵な方だろうと思っていたが、話を聞くと、戦争で成金になった男の後妻になるようだった。年も四十ほど上だと聞いて、ハナは固まる。


「どう…して? そんな」


「恥ずかしい話だけれど、この不況で…。それで家の方を助けてくださるの」と櫻子は俯いた。


「そんな。女学校は…」


「今週で終わりなのよ」


 今日が金曜日だったから実質、今日でお別れということだった。


「そんな…櫻子様」とハナはなんて言ったらいいか分からずに涙が溢れた。


「ハナさんとはたくさん思い出があるから…」と言って、小さな袋を渡してくれた。


 開けるように言われて、中を見てみると櫻子が身につけていたリボンだった。綺麗なリボンが羨ましくて、素直に褒めたら、お揃いにしましょうと言ってプレゼントしてくれたことがあった。


「こんな…恐れ多くて…頂けません」


「いいの。ハナさんはいつも私によくして下さったし、それに詩のことも…褒めて頂いて、本当に嬉しかったのよ」


 櫻子先輩の詩はとても美しく、控えめでありながら綺麗な世界を描いていた。それは空想の世界だからこそ、より一層美しかった。

 ハナは悔しかった。成績優秀な櫻子先輩が自分の意志とは関係なく運命が決められることに。女学校で勉強しても、どんなに努力をしても結局何の意味も成さないと思うと、ハナは悔しさが込み上げてきた。


「ハナさん。いい? 私は幸せになるわ」


 驚いて顔を見上げる。


「恋はできなかったけれど、詩はずっと書いていこうと決めたの」


「櫻子様…」


 お金持ちだから家事もしなくていいし、きっと時間はたっぷりあるはずだ、と少し茶目っ気たっぷりな様子で笑う。


「だからハナさんも幸せになってね。手紙を送るから、お返事ちょうだいね」


「はい…。絶対に書きます」


「お元気で。またいつかお会いしましょう」


「必ず…。いつか…その日まで…どうかお元気…で」と最後の方は涙が止まらずにうまく言えなかった。


 その時、美しい声で櫻子先輩が「いのち短し…恋せよ少女おとめ」と歌った。綺麗な歌声は青空に吸い込まれていく。この曲は友達と歌いながら帰ったりしていた。今は櫻子の綺麗な声と、そして泣きながら歌うハナの声が混ざった。


 櫻子先輩はきっと大きな不安を抱えているのに笑顔でさよならとハナに告げた。ハナは何も知らなかったので何も返すことができなかった。後日お手紙に何かを添えて贈ろうと決めた。

 ハナは櫻子がくれたリボンを胸に抱えて歩き出した時、清が待っているのが見えた。いつもなら緊張して俯いてしまい、固い挨拶をするのだが、思わず駆け寄ってしまった。


「どうしたんです?」とハナの泣き顔を見て、清も驚いたのかいつものような固い雰囲気じゃ無くなった。


「先輩が…」


 そう言うだけで涙が止まらなくなってどうしようもなくなった。ハンカチで目を押さえたものの、こんな道端で泣いてしまって、清にも迷惑だろうと思ったが、止まらなかった。


「ハナさん」と言って、手を引かれたので、驚いた。


 そしてそのまま公園に連れて行かれ、ベンチに腰を下ろした。


「話を聞くから。…ゆっくり落ち着いて」


「…すみません」


 驚いたせいで涙が止まった。清の大きな手の感触がまだ残っている。そしてハナは櫻子先輩の話をした。


「そうか…。この不況じゃ…華族のお家も厳しいんだな。農村部でも娘を…」と言って清は口をつぐんだ。


 そんな恐ろしい話をハナは聞いて青ざめた。身売りする女性がいることが同じ女性として居た堪れない。自分はなんて幸せなんだろうと思った。ハナの家は武家出身で、質実剛健な父は警官として働き、遊ぶことは一才なかったし、母も「物価上がって生活が苦しい」と言いながら倹約質素に努めている。


「…私…寂しいのと…後、悔しくて。あんなにお美しくて、成績優秀な方…が…」


「職業婦人として生きる方法もあるけれど、それでは家を支えることができないくらいだったんだろうね。…家同士のことだから結婚には口は挟めないが、何かあれば力になりますよ」


「本当ですか?」


「もしその方が逃げてこられたら…そんなに成績優秀な方でしたらお仕事を紹介しましょう」と清は言った。


 ハナは思わず頭を下げて、まだ逃げ出すとも何もないのに少し安心した。そして清は不幸な話かも知れないが、この一件でハナと距離が縮まったような気がした。


「…私は幸せ者ですね」と言って清に微笑んだ。


「責任を持ってそうさせてください」


「ありがとうございます」


 そう言いながら、あの曲が耳の中でこだましていた。いのち短し 恋せよ少女おとめとは自由を謳歌できるほんのわずかな時間だということをこの時、ハナは知った。櫻子先輩に憧れたり、同級生とおしゃべりしたり、先生に叱られたり…それはわずかな時間の煌めきだった。

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