第6話 初めての洋食
観劇を終えたハナは正雄の後を追って、劇場から出た。初めて見る劇、青い鳥は内容は子供向けのようでいて、それでいて深い内容で不思議な話だった。
ハナは舞台の素晴らしさに時折小さく声を上げたり、息を飲んだりしてあっという間の時間だった。
「どうでした?」
「少し難しいところもありましたけど、随分と楽しめました」
「そのようですね。本当に楽しそうに観劇されてましたね」
「えぇ。とても不思議な気分になりました。私もその世界にいたような気持ちで、少し夢から覚めたような覚束ない心持ちです」
「歩けますか?」
「はい。大丈夫です」と話していると、入り口で待っている清が視界に入った。
今日も身だしなみをきちんと整えていて、精悍な顔立ちをしている。こんな人が自分を見初めたと言うのが信じられなくて、やはり緊張してしまう。
ハナたちに気がついて、大原は軽く手を上げた。
「どうでしたか?」
「ありがとうございます。とても素晴らしく…夢のような時間でした」と言いながら、やはりハナは地面を見てしまった。
「それは良かったです。お食事でもどうですか?」
「はい」
「じゃあ、僕はこれで」と正雄が言った。
ハナはできれば正雄にもいて欲しいと思った。二人きりだと話す会話が思いつかない。
「せっかくだから君もどうです?」と清が誘った。
「邪魔者じゃないですか? それに…観劇に付き添ったのだから、食事は勘弁してください」
ハナは思わず正雄を見た。まるで嫌々付き添いをさせられたかのように聞こえた。
「では疲れたのでしょうから、ビールなどはどうですか?」と清が言うと正雄はため息をついた。
「君の奢りでお願いしますよ」
そう言って、すぐ近くの洋食店に入って行った。ハナは初めての洋食店だったので、胸をときめかせた。きちんとしたテーブルクロスがかけられたテーブルに小さな花瓶が置かれていて、電燈はステンドグラスの笠を被り、壁には油絵がかけられている。
席についてメニューを見ても食べたことのないものばかりで、何を食べたらいいのかわからない。
「ハナさん、洋食は初めてですか?」と清に聞かれる。
「はい。初めてで…。何を頼んだらいいのか…」
色々説明してもらい、ハナはコロッケを食べることにした。男たちはトンカツを頼んでいる。待っている間も、初めての洋食に胸を躍らせていた。清と正雄はシベリア出兵後の不況について話し合っていたが、ハナは運ばれてくるご馳走が気になって仕方がなかった。
「ハナさん」と突然呼ばれて、驚いて清を見る。
「はい…」とハナが返事したのに、清は口を手で押さえて笑いそうなのを我慢している。
「初めての洋食じゃ…仕方ないよ」と正雄が言った。
どうやらハナの視線が給仕のお盆に注がれていることがおかしかったようだ。そうと分かるとなんともみっともない気がしてハナは顔が熱くなった。
「申し訳ありません」とハナが肩を落として、俯いた。
「いえ…。謝らないでください。洋食にも慣れてもらわなくては困ると言うだけです。また機会を作りますから」と清は笑いながら言った。
ハナは兼ねてからの不安を聞くことにした。
「私なんかで大原様の妻が務まるのでしょうか。私より…出来の良い美しいお嬢様が学校にはたくさんいらっしゃいますし…」
「…不安なら、うちに花嫁修行に来ますか?」
「えぇ?」と思わず声が出てしまい、慌てて口を手で押さえた。
「別に住み込みでとは言ってません。週に一度でも構いませんよ」
ハナは思わず目を白黒させてしまう。週に一度なら行くべきだろうか、と思った時に、正雄に「君はそこまで慌てなくても…」と話を割られる。
「確かに…。急いでしまったかもしれないな。でも少しでもハナさんが不安に思うなら…。慣れてもらえたらと思ってね。…それに君といると楽しそうに見えるけれど、僕の前では俯いてばかりだから」
「それは君が怖いからだろう。今だって、そんなこと言ったら、いくらなんでも楽しくなんていられないだろう。気楽な女学生から一転、花嫁修行なんて」
「…そうか。悪かったね」
「いえ。私が至らないばかりで…」とハナは俯く。
正雄が軽く笑った。ハナは思わず涙が溢れそうになる。
「そう気負わなくていいんだよ。君は望まれて結婚するんだから」と優しい声に思わず顔を上げた。
正雄は清にも「君もだ。いくら可愛いからと言って、困らせてはいけないだろう」と軽い調子で言う。
「やっぱり君がいてくれて良かった」と清が反省したたように頭に手をやる。
「君が人を好きになったら、こうも傍迷惑な人間になると初めて知ったよ」
「ハナさん、ごめんね。どう扱っていいのか僕も分からなくて…。なんとか君がいいようにと思ってしてることが、裏目に出てしまって」
清に謝られて、ハナは恐縮してしまう。
「私の方こそ…素敵な大原様にふさわしくないのかと不安で」とハナが言った瞬間、清が黙ってしまい、そして顔が赤らんだ。
「素敵な人だって」と正雄が呆れたように繰り返す。
赤い顔をして横を向いている清を見て、望まれて結婚するという言葉をハナは心の中で繰り返し、幸せを感じていた。きっとこの人となら、とハナは自分に言い聞かせた。
「お待たせしました」
ちょうどそのタイミングで待ち望んでいた洋食が目の前に置かれる。見たこともない食べ物にハナは目を大きくした。
「召し上がれ」と清に言われ、「いただきます」とハナは手を合わせた。
その時、口にしたコロッケの美味しさをハナは幸せな気持ちとともにずっと覚えている。サクッとした歯応えと、じゃがいものふんわりした優しい口溶け。さっきまでの気まずさはどこかへ消えて、観劇を終えた時のように夢の中にいる気分だった。
「どうですか?」と清に聞かれ、正雄もこっちを見ている。
「お二人とも今日は本当にありがとうございます。とても美味しくて…幸せです」とハナは二人に頭を下げた。
二人が顔を見合わせて、そして幸せそうに微笑んだ。
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