第5話 良く働く
翌日から夕雨は配達を全て引き受けた。もちろん配達がない時間は店内も手伝う。必然的に夕雨の方が仕事量が多くなった。それでも気にせず働くことにしている。体を動かすことになるし、お金を払ってジムに行くより、バイトで体を動かすなんてなんて合理的なんだ、と思った。
「おはようございます。お待たせしました」と言いながら、会社に入っていく。
「あー、こっち。今日は夕雨ちゃんか」と言って小川が手を上げた。
「ごめんなさい。はい。ホットドッグモーニングです」と言って、渡す。
「いいよー。夕雨ちゃん好きだし」と言って、チケットを渡してくれる。
「ありがとうございました」と言って受け取って出ようとすると、隣に座ってる人が「いいなぁ。俺も注文していい?」と言われる。
「はい、どうぞ。何になさいますか?」
「うーん。サンドイッチある? 紅茶で。レモン入れて」
「あります。レモンティはホットでよろしいですか?」
「うん。お願いね。小川さんにチケットもらって」と言うと、小川さんがため息をついてチケットを渡す。
「いいんですか?」
「後であいつからお金でもらうから」と嫌そうな顔で言う。
「じゃあ…。すぐ戻ってきますね」
「夕雨ちゃん。ついでにチケット一冊持ってきてくれる?」
「はい。ありがとうございます」と言って、慌てて店に戻った。
(チケット一冊とレモンティとサンドイッチ)と呟きながら店まで急いだ。
店に戻るとマスターに注文を言って、チケットを一冊もらう。
「夕雨ちゃん、注文までとってきたの? それでこれ、三階の北島さんに」と言って、すぐに配達を頼まれる。
「はい」と言って、夕雨は受け取った。
一人で配達をこなすとなるとやはり大変だった。小川さんの隣の人にサンドイッチとレモンティーを運ぶ時にはくたくたになっていた。
「お待たせしましたー」と言って、渡す。
「ありがとう。夕雨ちゃん? って学生?」とレモンティを飲みながら聞いてくる。
「いいえ」
「フリーター?」
「はい」と言いながら小川さんにチケットを渡す。
「へぇ。お小遣いあげようか? 一緒に晩御飯でもどう?」
「結構です」と言って、すぐに店に帰った。
田村さんが嫌がるのよく分かる、と思いながら夕雨は階段を駆け降りた。店に入ると田村さんが申し訳なさそうにしていた。すでにトーストを食べている。時計を見ると八時四十五分になっていた。
「もう注文ないかな…」と言うと、マスターも「もう終わりだろう」と言った。
電話が鳴ったので、夕雨が取った。未嗣だった。
「本当に悪いんだけど、モーニング配達してもらえる? 三軒南側のマンション、エスポワールの501号室だから」
「はい。トーストでいいですか?」
「うん。バターだけ。それとホット」
「はい。分かりました」と言って、夕雨は切った。
「バタートーストモーニング、ホットで」とマスターに言うと、「ごめんね」と言われた。
田村さんが食べているので、夕雨は卵をセットして配達用のお盆に乗せる。マスターはトーストを焼いてくれて、その間にコーヒーを入れてくれる。手際よく用意されたモーニングを持って、夕雨は三軒向こうのマンションまで行った。スリムな小型マンションだった。オートロックで部屋番号を押すと「どうぞ」という声がして鍵が開いた。
エレベーターに乗り込むとコーヒーの匂いが充満する。
501を押すと、未嗣がボサボサの頭で出てきた。寝ていないのか目が充血している。
「あ、ごめんね。忙しい時に」と言ってお金を出そうとする。
「チケットあるので大丈夫です」
「え? そうなの。配達までしてもらえて…悪いね」
「いいえ。じゃあ」
「あ、ちょっと待って」と言って、一度受け取って部屋の奥に消えていった。
しばらくすると手に可愛らしい小箱を持っている。
「これ、あげる」
「え?」
「なんか、有名なりんごキャラメル? とか言うんだけど、歯の詰め物が取れそうで。編集者からの頂き物で」
「編集者?」
「英語の翻訳してて…。締切間際なんだ。午前中までだから。昼からゆっくり行かせてもらうね」
「…英語」
「うん? どうかした?」
「あ、いえ。ありがとうございます」と言って、夕雨はその小箱を受け取った。
「頑張って。僕も頑張るから」
そう言われて、なぜかとても嬉しくなった。
「はい。じゃあ、私も頑張りますので、頑張ってくださいね」
一瞬、きょとんとした顔をしてから、笑い出した。
「ありがとう。元気になった。実は眠たくて、お腹空いて死にそうだったから」
「え? 大丈夫ですか?」
「今ので元気が出た」
あまり意味が分からなかったが、夕雨は少し嬉しくなって笑って、「じゃあ、失礼します」とお辞儀した。
夕雨が店に帰ると、田村さんはエプロンを脱いでいた。今日は早々に帰るようだ。挨拶をすると、マスターが「レーズンパンでいい?」と聞いてきた。
「はい。今日は疲れたので、遠慮なく二枚ください」
「卵もつけてあげるね」
本当はお給料をあげて欲しいが、そんなことは言えなかった。
「最後の出前って…どこだったの?」
「あ、あの…三条さんでした」
「あ、近くに住んでるって言ってたもんね」
「それと…キャラメルもらいました」
「良かったね。それは夕雨ちゃんが食べたらいいから」と言ってくれた。
お昼を過ぎた頃、マスターにお使いを頼まれた。サンドイッチで使うハムを買いに行くように言われた。近くに精肉店があるので、「ロースハムを六百グラムね」と言われた。
夕雨は精肉店まで歩く。今日は天気がいいので、お店の外に出ると気分転換になった。青空を眺めながら、気分良く歩いていると、前から未嗣が歩いてきた。
「あ」と思わず声をあげる。
「やあ。おかげさまで原稿間に合ったよ」と軽く手を振られる。
「こんにちは」
「どこ行くの?」
「お使いです。そこのお肉屋さんにハムを買いに」
「へえ。一緒に行っていい?」
「どうぞ」
「お肉屋さんがあるなんて知らなかった」
「え? すぐ近くですよね」
「まぁ、料理もしないから見えてなかったかも」
「そうなんですね」
先客が二人ほどいたので、並んで待つことにした。
「ステーキ肉美味しそうだなぁ」と未嗣は言う。
「そうですね。確かに美味しそうです。高いけどきっといいお肉です」
「買おうかなぁ」
「いいですね」
「買ってあげようか?」
「え?」
「バイト帰りに取りにきたらいいよ。今日、配達してくれたお礼」
「お肉を?」
「食べたくない?」
「…それは食べたいですけど」
「じゃあ、このひれステーキの分厚いのを二人分。悪いけど、別々に包んでくれる?」
「あ…」と思った時は先客の後に頼んでいた。
「お互い頑張ったからこれくらい贅沢したって怒られないよ」と言って笑う。
確かにこのお肉を食べれば疲れ切った体が復活しそうだった。夕雨はハムを注文して、そして未嗣と別れた。
「また後でね。バイト帰りに寄って。501ね」
お肉を買ってくれるなんて思いもしなくて、夕雨は不思議な気持ちになった。でも家族のいる家に持って帰るのに、自分だけお肉を食べるのは心苦しく思う。でもそれならみんなで一切れずつ食べたらいいか、と思って少し楽しみになった。
二時になる手前に未嗣はコーヒーを飲みに来たが、お肉の話は一切しなかった。窓際で座ってぼんやりしているだけだった。
「コーヒーの淹れ方教えるから」とマスターに言われて、夕雨は教えてもらっていた。
「夕雨ちゃんはなんでも真剣にこなしてくれるから本当に助かる。だからコーヒーも淹れられるようになってくれたらもっと助かる」
「美味しいコーヒー淹れられるようになったら…。お客さんに出していいですか?」
「そうだね。あ、今日の試作品は三条さんにあげて」
「あ、はい」
名前を呼ばれて、こっちを見た。芽依はコーヒーサーバーを持って、窓際に行く。
「これ、私が淹れたコーヒーなんで、良かったら飲んでくれませんか? チケットはなしで」
「いいの? ありがとう」と言って、空になったカップを寄せてくれた。
そこにコーヒーを入れる。香りが立つ。
「いい匂いだね」と微笑んでくれる。
「美味しいかは…わからないですけど」
「おかわりしたいくらいだ」と一口飲んで言ってくれた。
「三条さんは甘いなぁ」とマスターが苦笑いをする。
「よく働くいい子だからね」
そう言われて、夕雨は照れ臭くなった。
「でも…もっと他にすることないの?」
「他に?」
「恋とか…。ほら命短し、恋せよ乙女って昔から言うでしょ?」
(いのち…みじかし…)そのフレーズはなぜか馴染みがあるような気がして、夕雨は首を傾げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます