第3話 朝の戦場
朝の喫茶店は忙しくて、戦場モードになる。隣のビルの会社員たちがモーニングを配達してほしい、と電話が鳴るからだ。マスターは鬼のようにパンをトーストしたり、サンドイッチを作ったりする。店内にもお客が来て「いらっしゃいませ」と言いながら水を運びつつ注文を受ける。もう一人の早朝だけのバイトの田村さんと二人で、配達や、店内と動き回った。九時になるとその忙しさもピタリと収まる。始業時間が始まるのだから会社員も出社するか、モーニングを注文する人もいなくなる。たまに重役が頼んだりするくらいで、後は会議が入ったらコーヒーの大量注文が入るくらいでそれも毎日とは限らない。
隣のビルは先物取引をしている会社らしく、若い社員ですら、なんだかギラギラしていた。夕雨は配達すると声をよくかけられるが、朝忙しい時間にそんなに構ってもいられないので、曖昧に笑ってやり過ごしていた。
「日曜日、暇じゃないの?」
「映画行かない?」
「沖縄行こう」と言われた時は流石にはっきり断った。
このビルの社員さんが注文してくれる量は多いので、店にとっては大事なお客さんだ。だから無碍にはできないが、「はっきり断ってくれていいから」とマスターから言われている。
「忙しいのに、もう勘弁して」と一息ついた田村さんはキレていた。
「ごめんねぇ」とマスターが謝って、コーヒーとトーストを差し入れする。
「マスターが謝ることないですけど」と田村さんはどうしていいか分からずにそう言った。
「配達、私が全部しようか?」と夕雨が言った。
「でも…」
「いいよ。明日からそうしよう」
夕雨は適当にあしらえばいい、と考えていた。
「夕雨ちゃんは何がいいの?」
「私はレーズントーストにバターたっぷり」と言った時、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」と振り向くと昨日の未嗣が入ってきた。
「おはようございます」と挨拶してくれる。
夕雨が水とおしぼりを持って行く。
「ご飯中?」
「あ、いえ。大丈夫です。ちょっと一息つく時間です」
「悪いね。ホットとトーストにバターだけ」
注文を受けて、マスターに「ホットモーニング、バタートーストで」と言った。
「すごい男前」と田村さんはトーストを食べながら夕雨に言う。
「昨日来てくれて…券も買ってくれたから常連さんになると思う」と小さな声で返した。
「本当? 私、持っていいっていい?」
「あ、うん。どうぞ」と言って、夕雨はモーニングのセットを始めた。
トーストモーニングには茹で卵がついている。塩と茹で卵をお盆に乗せて、カウンターに置いた。
「じゃあ、夕雨ちゃん、どうぞ」とレーズントーストを出してくれる。
「ありがとうございます」
田村さんが運んでれると言うので、夕雨はカウンターの前の椅子に座った。田村さんはさっさと食べて、準備万端でモーニングを運ぶ。田村さんは大学生で今から授業があると言って、いつもは素早く帰るのに、今日は何だかゆっくりしている。
「もう上がっていいよ」とマスターが声をかけて、少し名残惜しそうにエプロンを外した。
「じゃあ、また明日」
「はーい」とマスターは明るく返事をした。
夕雨も「またね」と手を振る。
「レーズントースト好きだねぇ。もう一枚食べる?」とマスターが言ってくれる。
「え?」
「消費期限もあるから、良かったら焼くけど」
「ありがとうございます」
レーズントーストは少し小さいから、もう少し食べたいと思っていた。お客も未嗣だけしかいないので、ゆっくりした時間だった。
「あのね。隣の会社の人…何かされたら言ってくれたらいいからね」
「あ、大丈夫です」
「…それで夢また見たの?」
「…見ました。でも…やっぱり思い出せなくて…。なんか曲が流れてた…。古臭い曲が」
「古臭い曲?」
「はい…。でもなんだったかなぁ…」
「それ以外は覚えてないの?」
「うーん」
何か覚えているような気がするけれど…考えると自分が作ってしまいそうな気がして夕雨は目を閉じた。
「安心した気持ちが…残ってます」
「安心?」
首を横に振って、それ以上は何も思い出せない、と言った。
「まぁ、また今夜も見るんじゃない?」
「…そうかもしれません」とため息をついた。
そしてレーズントーストが目の前に置かれた。食べようとした瞬間、未嗣が立ち上がって、レジに向かう。夕雨はそっとパンを皿の上に戻した。
「あ、ごめん。ご飯中に…」と未嗣が慌てる。
「大丈夫です」とレジに行こうとしたら、夕雨の隣に座った。
「ホットお代わり」
「ありがとうございます」と言って、マスターが伝票を受け取る。
「え?」
「何か面白そうな話をしてたから」と横に座られて、じっと見られた。
「面白そうな話?」
「古臭い曲って」
「あ、あれは夢の中で…歌が流れてたんです。でも思い出せなくて」
「歌? 古臭い?」
「はい…。何だか…あ。でもやっぱり思い出せません」
「ごめん。食事中に。レーズンパン好きなの?」
「そんなに好きじゃなかったんですけど、ここでアルバイトして食べさせてもらったらすごく美味しくて」
「へぇ…。って見られてたら食べ辛いよね」
(…食べ辛いけど。でも…)
「ごめんね」と言って、マスターと話始めた。
今の台詞に何かが引っかかるけど、夕雨は分からず、そのままレーズントーストを口に入れた。バターの香りが広がって幸せな気分になる。
「夕雨ちゃんは本当に美味しそうに食べるなぁ。お代わりする?」とマスターに言われて、慌てて首を横に振った。
「可愛い」と未嗣に言われて、固まった。
マスターが「確かに」と言って笑った。
「どこがですか」と言い返して、恥ずかしさが込み上げてきた。
「美味しそうによく食べる子って可愛いよね」と未嗣が微笑んだ。
それがなぜだかよく馴染んだ笑顔のように思えて、夕雨は恥ずかしい気持ちと同時に幸せな気持ちで微笑み返した。一瞬、時間が止まったように、未嗣の笑顔が固まった。
でもすぐに「また邪魔してしまったね」と笑った。
ステンドグラスの光が差し込む朝の時間にコーヒーの匂いが立つ。夕雨はこの空間がなぜか心地よくて、そして少し泣きたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます