第2話 恋せよ をとめ

「ほら、そこは…ing じゃなくてtoの方を使う」

 

(大きな手が私のノートに書き込む)


(私…?)


「ハナさん?」


「あ、すみません。少し…」


「疲れましたか? アイスクリームでもいかがですか?」


「え?」


 目の前にいる男の人は三つ揃いのスーツをきっちり着こなしていて、翡翠のカフスボタンをつけている。髪はポマードで綺麗に撫で付けられており、目は細長く知的で、美しい顔を際立たせている。その男性に流行りのカフェに連れてきてもらっていた。


「休憩にしましょう」と言って、アイスクリームを頼んでくれた。


 給仕の女性はかわいい着物の上にエプロンをつけて、注文を取ってくれた。そして蓄音機から「いのち短し 恋せよ少女おとめ」と歌が流れている。


「この曲の劇は見に行かれましたか?」


「…いえ」と言って、ハナは俯く。


「ハナさん。婚約は…嫌でしたかね?」


「いえ…そんな」


 ハナは女学生だったが、この男と婚約をしていた。男は大原清と言って、外交官だった。授業参観の英語の時間にはきはきと発言したのがよかったと言われ、あれを見られていたとは思わずに、恥ずかしくなった。ハナの家に正式に縁談が申し込まれ、両親も断ることもなく結婚が決まった。ただ大原の仕事が忙しいのでなかなかタイミングが合わない。女学校は卒業したいというハナの気持ちを考えて卒業までは婚約者でもいいし、あるいはできるタイミングで結婚して、その後も大原家から通って卒業してもいいと言われている。


「外交官の妻ですから、英語はしっかり勉強してください」


「はい」


 そう言って、デートとは言え、カフェで英語を教えてもらうことになった。ハナは清が好きかどうか分からないが、男の人とこうして向かい合っていることがたまらなく恥ずかしくて、いつも俯いてしまう。


 整った顔立ち、外国生活もあるという清の立ち振る舞いは洗練されていた。ハナはどちらかというと、天真爛漫に育っているので、どうしても緊張してしまう。


「本当はすぐにでも結婚したいんですが…」


 思わず顔をあげて、清の顔を見つめる。


「イギリスにしばらく行かなければいけなくなりまして。四カ国条約が締結されたので…」


「四カ国条約?」とハナは目を丸くする。


「それによって、日英同盟更新がされないというだけですから」


「…そうですか。危険な場所に行かれるわけではないのですね…」


「ご心配かけて申し訳ないのですがね。その間に僕の友人から英語を習ってください。もうすぐ来ると思うんです。同じ大学で英文科を卒業して、新聞社に入ってましたが…今は、小説なんか書いてて、暇を持て余してるんです」


 そう説明を受けている間に、アイスクリームが運ばれてきた。


「どうぞ、召し上がってください」と言われるが、一人で食べるのは気まずく感じる。


 丁度、その時、大きな背丈の男の人が入ってきた。洋装ではあるが、三つ揃えではなく、別珍のジャケットにシャツというラフな格好をしていた。


「あぁ、どうも、こんにちは」と言って、無愛想に席に着く。


「僕の友人、山本正雄。こちらは婚約者の入江ハナさんだ」


「初めまして」とハナは頭を下げる。


「初めまして。…アイスクリーム溶けますよ?」


 思いがけない言葉を言われて、ハナは目を開いた。正雄は少しウェーブのかかった髪を耳にかけていて、清とは違い日本人離れした顔で、目も大きなハンサムだった。


「僕も、アイスクリームにしようかな」と言って、注文をしていた。


 ハナは男の人がアイスクリームなんかを食べるとは思っていなかったので驚いた。


「一人では食べ辛いでしょう?」と正雄が言う。


「あぁ、そうか。それなら三人で食べよう」と言って、清も注文した。


 運ばれてきたアイスクリームを男二人が並んで食べているのを見て、ハナは少しおかしくなってしまい、袖で口を隠して笑った。


「おかしいですか?」と正雄が聞く。


「いえ」と言いながらもハナは笑った。


「ハナさんが笑うの初めて見ました」と清が言った。


「そりゃ、お前の教え方が厳しいんだろう」と言いながらアイスを食べる。


「そんな…」


「随分溶けてしまったから、ハナさんもお食べなさい。後でたっぷり厳しい授業をして差し上げます」と清が言うので、ハナは慌ててアイスを口に入れる。


 甘くて、冷たくて思わずうっとりしてしまった。


「君の婚約者はかわいいな」と正雄が言うので、ハナは息が止まった。


「人の婚約者を口説かないでくれたまえ」


「はは。あまりにも美味しそうに食べるから、素直に感想を言っただけだ」と何の気もなさそうに笑う。


「ハナさんはあまりアイスクリームを食べないんですか?」と清に聞かれた。


「…はい。お友達とよく行くのは甘味所であんみつとか…ぜんざいとか」と言うと、正雄が「今度は三人でそれを食べに行こう」と言う。


「おいおい、食べるのが目的じゃないんだぞ」と清は言ったが「一度くらいは行ってもいいかもしれないな」と付け足した。


 正雄が来てくれてから、すっかり空気が和んでハナは緊張が解けた。清も軽口を叩くようになったので、安心した。ハナもいずれは誰かと結婚するとは思っていたが、突然、縁談が来た時は驚いたし、正直不安だった。女学校特有であるが、一つ上級生のお姉様にハナは懐いていて、手紙を書いたりしていたものだから、男の人に対してどう接したらいいのか分からなかった。


「ハナさんが少し打ち解けてくれたようで嬉しいです」と清に言われて、ハナも恥ずかしいながらも嬉しく思った。


 蓄音機からからは「いのち短し〜恋せよ少女おとめ」と相変わらず流れていた。


 

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