可惜夜に

「玉櫛笥 明けまく惜しき 可惜夜を 衣手離れて ひとりかも寝む」


万葉集にあるその歌を思い出しながら煙を吐く。

街の灯りに負けない位、降るような星空だ。


朝のニュースによれば、今日は数百年に一度の流星群が見られるらしい。


左手で、妻が忘れていったリップスティックを弄ぶ。

「赤過ぎない?」と恥ずかしそうにしていたが、彼女によく似合っていた。

僕が誕生日に贈った薔薇と同じ色。


「寒いな…。」

今夜は空気が澄んでいる分、芯まで冷える。

吸い殻を灰皿に押し付け、ホットワインを啜る。

カップの隣に置いたスマホは相変わらずビクともしない。

足元のプランターの花は夏に枯れたまま。

気にかけてくれる者を失い、ただ空しいガラクタとなっている。

試しに葉に触れれば、乾いた音がした。


溜息か残っていた煙か、散らすように立ち上がるとビルの間で

二、三、立て続けに星が流れた。

その光景を写真に収めようとスマホを取ろうとして、

傍に置いたリップスティックを落とす。

レンズを空に向けてみたものの、再び流れ星を見る事は叶わなかった。

落ちたリップスティックを拾うと、妙な感触がした。

蓋を開け中を確認しようとした瞬間、スマホが震えた。

妻の名前がディスプレイに表示される。


「見た?流れ星!」

「あぁ、うん。」


待ち望んでいた妻の声に耳から安堵する。


「そっちからも見れるの?」

「こっちのほうがよく見えるに決まってるじゃない。」

「あぁ、そう言われれば、そうだな。」


言いながら、煙草を取り出し火をつける。


「ちょっとぉ、今日何本目?」

「二本目。」

「嘘、絶対もっと吸ってる。控えてねって言ったでしょ?百害あって一利ないのよ。」

「そんな風に言うなら見張っててくれよ。」


それに君がいれば、こんな夜更けに口寂しくなることだってない。

そこまで言おうとしてためらった。

言ってしまったらきっと、言いたくない事も言ってしまいそうだから。


「ごめんね、すぐに帰るつもりだったんだけど。」

「仕方ないよ、お義母さん具合はどう?」

「お医者様にはちょっと難しいかもって言われてる。ご飯、全然食べれてなくて。」

「そうか…。」


妻の母が癌を患ったと知らされたのは半年前の事。

進行してからの知らせだったため、妻はすぐに実家へ戻った。


「食べることが生きがいみたいな人だったのにすっかり痩せちゃって…。

 もう見てられないの。」


妻の声に涙が混じる。


「なるべく声をかけて、傍にいてあげて。」

「うん。…ごめんね、ありがとう。」


通話の最後、彼女はこんな風に必ず謝る。

僕は煙草の灰を払い、もう一度口にしようとしてやめた。

今日のこの空を絶対に二人で見ようと約束していた。

広いバルコニーを気に入ったという君の一言がこの部屋を選んだ決め手だった。


「夜は星を見ながら二人で晩酌するの。素敵じゃない?」

「そうだね。」

「それにプランターで家庭菜園もできそう!ね、ここにしましょ!」


リップスティックの蓋を開けると、中で折れているのがわかった。

くり出す事もできない位根元で折れている。

僕は温くなったホットワインを煽ると家の中に入った。

使えなくなったリップスティックをリビングのテーブルに置く。

帰ってきたら謝らないと、そう思いながらカーテンを閉めた。

離れていても見ていたのは同じ空。

妻と同じ夜を過ごせたと自分に言い聞かせながら、冷たいベッドに潜り込む。

共に見た星に君の願いが届くよう、そう祈って。


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