新緑の候、廻る
柔らかく雨が降っていた、4月の終わり。
暖かさが暑さに変わってきた頃、私は傘もささず、街路樹の新緑に心奪われながら歩いていた。
するとどこからか悲鳴が聞こえてきた。
辺りを見渡すが、そんな声を出した者など誰もいなかった。
気のせいかと胸を撫で、再び歩みを進める。
街路樹の終わり、横断歩道の信号待ちをしている時だった。
一台の自転車が、ぶつかるスレスレを猛スピードで横切る。
呆気に取られ、その後ろ姿を見ていると、四十代位の女性が「待ってよォ…」と、ヨタヨタしながら現れた。
自転車の人は似つかわしくない大きなカバンを背負っていた。
近くにいた若者が察したと言わんばかりに自転車の後を追った。
「大丈夫ですか?」
私は膝を落とした女性に声をかけた。
「カバンか何かを盗られた、とか?」
すると、女性は首を横に振った。
「すみません、あの、あぁ、はぁ、はぁ。なんでもないんです、大丈夫。」
そう言って立ち上がると、ヨタヨタと自転車が向かった方へ再び走り出した。
なんでもないとはどういう事か。明らかに何かありそうだが。
盗られたのでないとすれば、ただ後を追っていただけか、うん。
信号が二度目の青に変わり、私は横断歩道を渡った。
急かすように点滅を始めた、その時。
「はぁ、何なんだよ、ったく。」
先程自転車を追いかけて行った若者が、向こうから歩いて来た。
私は気になったので声をかけた。
あ、あの。さっきの女の人…大丈夫、でしたか?
「あぁ、大丈夫。…えっと、自転車の人が定期を忘れたとかで。お姉さん?…が追いかけてたんだよ。それだけだった。ま、窃盗とかじゃなくて良かったよ。」
そうでしたか。
私は胸に手を当て、安堵した。
…ではさっきの悲鳴は?てっきり関連したものだと思っていたが。
あの、さっき悲鳴が聞こえた気がして。私はてっきりあの人達の事かと思ったのですが…。
思い切って若者に尋ねてみた。
「あぁ」
彼は何かを知っているように視線を上げた。
「気のせいですよ、きっと。」
いやまて、その答えは気の所為なんかじゃないだろう?
あの時聞こえた悲鳴はホンモノだったって事だ。
この若者は何かを知っている。
知っていて知らないふりをしている。
信号は赤から青に変わった。
若者はそれじゃ、と片手を挙げ去っていった。
私は背筋がスっと冷たくなった。
若者の挙げた袖口に、手を下ろしている時は目立たなかった赤いシミが見えたのだ。
私は悲鳴がしたはずの方向へ足を運んだ。
横断歩道を再び渡り、歩いて来た街路樹を抜ける。
すると、風を切る音が聞こえ、猛スピードで自転車が横切った。
あの自転車である。
定期を忘れたと言っていたが、そもそもあんなにスピードの出る自転車に乗っている人が電車になど乗るだろうか?
すみません!…自転車の人!
私は走って追いかけ、大声を出した。
自転車は五メートル先で止まると、こちらを振り返る。
「はい?」
定期は無事に受け取れましたか?
自転車の人は疑問符をそのまま顔にした様な表情で私を見た。
「定期?なんの事ですか?」
あれ?…すみません、人違いだったようです。
呼び止めてしまってすみません。
「いえ。それでは。」
ヘルメットの色、自転車、洋服の色、そして大きなカバン。
どれをとっても間違いなく先程の自転車の人だ。
人違いではない。
しかし、あの人は何も知らないと言う風だった。
これは一体どういう事か。
あの女性は彼を追っていたのではないのか?
女性を追った青年は何を見届けたのか?
私は何を見たのか?
雨はいつの間にか止んでいた。
少し冷たい風が吹く。
コートの襟を寄せた、その時だった。
サイレンを鳴らしたパトカーが数台、私のすぐ脇の道路を走って行った。
パトカーは辛うじて見える交差点で止まっている。
私は走った。
きっとあそこへ行けば答えが分かる、そう思った。
最後の横断歩道の信号機、青が点滅する。
急げ、急げ…!
信号は赤に変わった。
私は渡ることが出来なかった。
悲鳴がすぐ近くで聞こえる。
目の前には少し濡れた自転車のタイヤ。
悲鳴の主だろうか、黒いパンプスが震えながら歩みを進める。
駆け出す音、彼女は何かに怯え、そして逃げた。
薄くなる意識の中で、聞き覚えのある声がした。
『はぁ、何なんだよ…ったく。』
あの青年だった。
音が曇って聞こえる。
痛みを痛みと呼ぶには、それはあまりにも酷かった。
私は指先すら動かす事が出来ず、遂に意識を手放した。
『俺が迎えに来たのはあの自転車野郎だったのに、はぁ…。ったく、何なんだよアンタ。これで何度目だよ。』
そして私は、また春を繰り返す。
街路樹の葉だろう、ハラリと私の背に落ちた。
それを私は永遠に見ることが出来ない。
瞼に浮かぶのは光に透ける新緑の色。
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