菊の夢


「これはこれは、上物じゃないですか。」


白くて艶のある珠のような肌。

紅をさしたような血色の良い唇。

こちらをじっと見つめる子猫のような目。

涙ボクロがまた、良いところにあったもんだ。


「買いましょ。最初に来てくださったのがウチの見世で良かった!この子は必ず売れますよ。そしていずれはこの街イチの花魁に。」


女衒の男が細い目をさらに細くしてニヤリと笑った。


「そうですね、将来うちの看板になってもらうんだから、この位お渡ししたらいいかしら…ふふふ、こんな上物をよくぞ連れてきてくださいました。ぇえ、もちろん!大切にさせていただきますとも!」


女衒の男はその言葉をしっかり胸に留めると、帰って行った。


「さぁさぁ、まずは湯に浸かろうねぇ。長旅で疲れたろう。綺麗な着物を着せてあげよう。ここでは美味しいご飯もたんまり食べられるからね。お菊、お菊ー!」


遣手のお菊がタッタカやってきて、その子を見るなり石になったように固まった。

その目からは涙か一筋伝っていた。


「なぁに泣いてんだい。あんまり綺麗なコだから感動したのかい?ふふふ、良い買い物をしたよ。この子を湯に連れてっておくれ。綺麗にしてやるんだよ。」



お菊と子どもはその夜消えた。



✼・✼・✼・✼・✼



「わっちは嘘なんてつきんせん。主様を思う心はまこと、まことでありんす。」


間夫の肩にもたれ、喜久太夫は甘い声を洩らす。


「朝なんてこなきゃいいのに…。そしたら主様とずっとこぉして…。」


遊女は所詮、一夜の恋人。

まことの愛と誓っても、それは一時の夢。

しかし相手が間夫ならば


「わっちの誓い、受け取っておくんなんし。」


窮まった女は立ち上がると、鏡台に置かれた剃刀を自らの小指に突き立てた。

焦がれる遊女が、想い人に真を違う手段として、切った己の小指を贈るのだ。


しかし男は、それを拒んだ。

その指を、手を、大きな手で包むと遊女を抱いた。


「どうして…。わっちは、わっちを信じて欲しいだけ。これが手練手管ではないと、主様だけがわっちの、わっちのたった一人の。」


男は信じているとも、と太夫の耳元で囁くと深く息を漏らした。



数日後、喜久太夫は箪笥の後ろに貯め込んでいた銭を店の主に渡した。この苦界を出た時の為にと、こつこつ貯めていた希望の銭だった。それを全て主に渡すと彼女は十月(とつき)暇(いとま)を貰った。


間夫は店の若衆に、顔が分からなくなるまで痛め付けられた。


✼・✼・✼・✼・✼


年が明けた。



「すまないね、あたしにゃここしか頼れないんだよ。」



女はそう言って、包まれた赤子を寺に託した。


「何処かいい家に貰われるんだよ。商家がいいね、きっと沢山甘やかしてもらえるだろ。」


丁度その頃、なかなか子が出来ず悩む夫婦が和尚の元へ相談に通っていた。和尚が夫婦に赤子を会わせると、夫婦はすぐにその子を引き取る事に決めた。


「良かった…。あの子は運のいい子だよ。」


女はそう言って微笑みながら、いつまでも泣いていた。


✼・✼・✼・✼・✼


年季が明けた喜久太夫は、行き場もなく、遣手(やりて)のお菊としてこの街に留まっている。


彼女は自分が腹を痛めて産んだ子を、一度も忘れた事はなかった。その成長した姿を一目でいいから見たいと、年季が明けてすぐに探しに行った。慣れない町を和尚から得た情報を頼りに右往左往。しかし、あの夫婦の家は見つからない。人に聞いても分からず終い。


かつて、間夫であった男が久し振りに姿を現した。

顔は少し変わっていたが、その声と口調に菊は直ぐにその人と気付くことができた。男は細い目に笑みを浮かべると、語り始めた。


男は今、女衒として働いているらしい。菊が産んだのが己の子と知るや、その所在を探していたそうだ。


「…え、それは本当かい?母親が、男と逃げた…。それで、あの子は?あの子はどうした?」


十になった娘は母親の代わりを務めようと、毎日キリキリ働いているそうだ。


「まさかこんな事になっちまうなんて」



遣手になった今も、自分に似た、肌の白い娘の猫のような目元を、泣きボクロを、忘れた事は一度もない。


「アタシは一度だってあの子のことを忘れたことはないんだよ。…あんた、お願いだ。会わせておくれよ…!」


✼・✼・✼・✼・✼


楼主に命じられた男衆が二人の後を追う。

どこへ行った、どこへ向かった…

探せど探せど見つからない。


朝焼けの畦道、大小二つの影が失われていた時間を埋めるように踊っていた。




✼✼✼おわり✼✼✼







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