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ともすれば雪に溶けて消えてしまいそうな白髪と金色に光る虹彩が人ならざる者であることを示している。
なにより身にまとうオーラは神々しく、触るべき存在でないことは明らかだ。
「あれを斬ろうって、馬鹿なの!?」
剣を構えたままのユタがちらりと男へ目をくれる。
「斬れるが?」
「やめて!!」
ユタに絶対先に手を出さない、と約束させてからアリスは烽燧台に近づいた。
男は烽燧台の中に座り、どこか遠くを眺めている。
「お目にかかることができ光栄です。宮廷魔術師が一人アリス、ご挨拶申し上げます」
宮廷で覚えた礼儀にのっとり、優雅に腰を折る。
「畏れながら、貴方はこの霊峰を守護する山の王、でしょうか?」
ゆるりとアリスを向いた男は、何度か目をしばたいた。
「さあ、どうだろうかな」
「どう、とは……どういう意味でしょう?」
男は遠くへ視線を戻す。
「悪いが、分からん。そうなのか?」
自分が山の王であるかないか分からない、などということがあるだろうか。おかしい。
「……霊格の高さからして、山の王だとお見受けしますが」
アリスの見た記録には山の王に関する記述は特になかったため、その存在も名前も正体もはっきりしたことは分からない。
それでも、ここが霊山であることとこの男の存在感とを考えあわせれば、力の強い
「そうか」
男は他人事といった風情で遠くを眺め続けている。
さすがに毒気が抜かれたのか、ユタもやや警戒を緩めてアリスに顔を向ける。
「どういうことだ」
「……分からない」
吹雪いていないとはいえ、氷点下を下回る空気はこうしている間もアリスの体力を削り取っていく。もたついている時間はない。
「外の世界が氷で覆われているのはあなたが望まれたこと、ですか?」
「氷?」
「はい。いま外では氷と雪が吹き荒れて、人も動物も生きられない土地が広がっています。ご存じありませんか?」
「そうか。道理で静かなわけだ」
男の静かに吐いた息が、白く広がって消えた。
確かに氷の災厄はこの烽燧台を起点として起きている。だのに、そこにいる男には自覚がない。
不可解だ。
「まさかそれも忘れたのか?」
「ああ、そうかもしれない」
ユタに答える男の声には自嘲の響きがある。
「俺の先輩も、よく自分のしでかしたことを忘れる」
ユタが軽く首を傾げて言う。
「でも軽く殴ると衝撃で思い出す。試すか?」
「なに言ってるの!?」
「ふむ。ありがたい申し出だが、
「そうか。難しいな」
「失礼で本当にごめんなさい。この人
男は低く笑っているから怒ってはいないだろう。それでも、山の王を殴ろうとするなど、言語道断だ。
もしこの力ある存在が怒り狂ったら、軽く命が消し飛ぶ。山の王とはそういうものだ。
男がアリスへ視線を向けた。
「そう気にするな。話のできる者が訪れたのは久方ぶりでな、愉快だ」
激しく遺憾ではあるが、アリスもユタを話のできる者と評する存在に遭遇するのは久しぶりだ。
「あんた、いつからここにいるんだ?」
「分からない。ずいぶん長くここにいる」
アリスとユタは顔を見合わせた。
「この狼煙台、魔人戦争のときのやつだって言ってたよな」
数百年は前だ。
「山の王はここでなにをしていらっしゃるのでしょうか?」
「それも忘れたのか?」
男が目を細める。
「いや。それは忘れていない」
「覚えてるのか。なんだ?」
「ここは烽燧台だからな。
ドキリと心臓が跳ねた。
「敵か狼煙が見えたらば、狼煙をあげる。それだけだ」
「確かに見張りの仕事だな」
「もっとも、まだ一度たりとも狼煙をあげたことはない」
「そうか。でも戦争はとっくに」
「ユタ!」
慌ててユタの口を塞ぐ。アリスにぶらさがられる形になってユタが「むう」と息を漏らす。
「山の王、この烽燧台の魔術を少し見させていただいてもよろしいですか?」
「ああ。もてなしもできないが。ゆるりとしていけ」
男の視線は遠い山並みを見続けている。
***
烽燧台は固い氷で覆われていた。石に刻まれた魔術を調べるには氷を削ぎ落とさなくてはならない。
到底不可能に思えたが、なんせ連れは常識を彼方に捨ててきた男ユタだ。びっくりするほどの安請け合いで簡単に削り始めた。
蝕むような寒さの中でユタの作業を見守る。
「石まで削らないでね」
「任せろ」
パキパキと澄んだ音をたてて氷が割れていく。
姿を表したのは、古い時代の文字だった。触れると微かに青白く光るのは、霊力が満ちている証しだ。
「読めるか?」
難しい。文字だけでなく、当時の魔術と現代の魔術とでは根本から大きく異なっている。もはや別物だ。
とはいえ、こういう勉強は人一倍やってきた自負がアリスにはある。
「大丈夫。おおよその見当はついているから、あとは基礎構造さえ分かれば。あ、ここ削って」
アリスの指示したところへユタが剣先を叩き入れる。
ユタの使う剣は並外れて大きい。代々伝わる家宝だそうだ。それがスコップのように容赦なく使われている。ここへ来るまでも散々お世話になっているのだから今更だが。
「ありがとう、そのぐらいで大丈夫。うん、やっぱり霊脈の力をあっちで取り込んで。ここから拘束と使役へ帰結、させてるわけじゃない? あれ。逆流? ううん、循環かな。なんでこんな手間を。あ、こっちで自縛に誘導して。そうか、誘導を描いて」
「ここはかき氷が食べ放題だな」
「やめて、寒い」
悪い予感が当たっていた。
大きくついたため息が一瞬で氷になって消える。
「最悪。どうしよう、ユタ」
「なにがどうした?」
答える前に烽燧台の男を窺う。変わらず遠くを見つめていて、それほどアリスとユタの動向に注意を払っているようには見えない。
アリスは声を潜めた。
「ここの魔術は山の王を縛って見張りに使役してる」
「ふうん、そんなことが可能なのか」
いや、普通はそんなこと不可能だ。
「誰だか知らないけど、とんでもない天才だったんだと思う」
魔術をこの霊山の力で作用させている。それは不安定さと暴走リスクのある、非常に危うい方法だが。
「術式が芸術品みたい。一見無駄に思える術理を積み重ね、真の趣意を抽象的に描き出してる。一ミリの破綻もなく」
合理化の進んだ現代魔術とは違う、自然の摂理を模した古代魔術ならではの超絶技巧。
「それに見張りとして使役してる、なんて簡単な話じゃないの」
昼夜を問わない警戒の目が必要だったのだろう。烽燧台から出ることを許さず、眠ることも許さず、食事や休息でほんのわずかでも気を逸らすことがないように、もはや生き物の条理から切り離して烽燧台の要石とする。
当時どれほど切迫した事情があったか知らないが、それでも許されるはずのない暴挙だ。
「それが大昔の戦争の時からずっと」
魔人戦争は辛くも人間の勝利で終わったと伝わっている。
なぜ戦争が終わった時に山の王を解放しなかったのか、その理由は分からない。勝利に浮かれて烽燧台のことなど忘れてしまったのか、それとも自由にすれば怒り狂うであろう山の王を恐れて放置したのか、なんにしろあまりに無責任で胸糞悪い行為だ。
大剣を足元に突き立て、ユタが短く息を吐く。
「狂うぞ」
ユタでさえ、そう思うのだ。しかし、彼を縛る魔術は狂うことも許さない。
「だから忘れるしかなかったんだと思う」
己が何者か、何を望んでいたのか、どう生きていたのか。忘却することでひたすらやり過ごしてきたのだろう。
「でも忘れたからといって、その不条理も怨嗟も消えて無くなるわけじゃない。ずっとずっと降り積もって、世界を撓め続けてきた。その結果が荒れ狂う氷なのよ」
すべての記憶を失い、呪いだけを知らず吹き荒らす。呪詛の中心にいたのはそんな存在だった。
「それならどうすればいい? この魔術をぶっ壊すか? それとも、あいつを殺せば止まるのか?」
ユタが情緒もへったくれもない物騒な提案をしてくる。アリスは首を横に振った。
「無駄なの。たとえ魔術を解いて山の王を解放しても、あるいは山の王を殺しても、この氷は止まらない」
そんなことをしても数百年もの不条理をなかったことにはできない。止まらないのだ。
アリスは唇をきゅっと噛む。受け入れ難い事実と受け入れざるを得ない現実が、とても苦しい。
「そうか。じゃあ、帰ろう」
ユタの言葉にアリスは顔を跳ね上げる。見つめ返すユタの顔は、いつも通りの無表情だ。
「ここでできることは何もない。なら、さっさと帰ろう。でないと、お前が限界だ」
重ねられる限りの厚着と、オイルを使ったカイロ、凍傷を防ぐ魔術。全部を駆使してなお命を脅かす冷気の中に身を置いている。
いつもいつでもアリスを最優先に行動しようとする幼馴染の思考回路は突飛だが、ことアリスに関する見当は外さない。
アリスが自覚している以上に状況は切羽詰まっているのだろう。でも。
「やらなきゃいけないことがある」
ユタの眉がぴくりと動く。
「魔術を解いて、あの人を解放する」
「無駄なのに?」
魔術を解除したら呪いも解けるなんて可能性はほぼない。でも、ゼロではない。それに。
「無駄でも無意味でもケジメをつけないと。私だって魔術師の一人だから」
アリスはまっすぐユタを見上げた。
「どのぐらい時間がかかる?」
「……できるだけ急ぐ」
急ぐどころか、本当はやり遂げられるかどうかも怪しい。それでもやらなければならない。
***
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