烽燧台にて
たかぱし かげる
****1/3****
大気はシンと冷えている。
吐いた息が真白くなって広がり、薄暗い曇天と混ざって消えた。
すべてが死に絶えたような静寂の中、ただ己の吐息だけが聞こえる。
ここは高い山の頂きである。しかし、遥か見渡すことのできる地平は灰一色だった。
世界は今日も変わりがない。
どれほどの時をここで過ごしているか、彼はもはや覚えていない。
ただひたすら、己を縛る術理に従い、下界を見張り続けている。
どこかの山の峰で狼煙があがるか、あるいは攻め寄せる敵を見いだせば、即座に炎と煙でもって知らせる。
そのためだけにここにある。
だが、彼の記憶にあるかぎり、どこかで狼煙があがったことも、敵の姿が見えたことも、一度もなかった。
飽いていると言えば、とうに飽いている。
己が何者であったのか、なぜここに繋がれたのかも忘れ果てるほど、飽いている。
吐いた息が白く広がって消えた。
狼煙も敵も、なにも見えない。
それでも彼の目は逸らされることも閉じられることもなく、広い世界を見張り続ける。
それだけが彼の、いや、この烽燧台の存在意義なのだから。
***
閉じられた重い扉の前でアリスは大きなため息をついた。
まだ20前の若さの彼女は、しかし重厚な魔術師のローブをまとっている。
眉間にシワを寄せたしかめ面で、そんな顔でも可愛らしく見えてしまうのは本人の密かな悩みなのだが、部屋の中の頭の固い
「アリス」
名前を呼ばれ、慌てて暴言を飲み込む。顔を向ければ、幼馴染みの男ユタだった。
宮廷では騎士服を着用しているはずなのだが、上着はどこかへ放ってきたのだろう。薄いシャツ姿で鍛えた体躯が目についた。
「どうだった?」
表情らしき表情もない精悍な顔で聞いてくる。他の人間、特に女子にはこれが格好よく見えるらしいが、幼い頃から中身をよく知るアリスがこの顔に騙されることはない。
「ダメ。調べたければ勝手に自分で調べろ、だって」
不満でアリスの頬がふくらむ。無表情なユタとは反対に、アリスは昔から感情が
「殴り込むか?」
ユタが厚い扉の向こうへ視線を投げたのでアリスは慌てた。
「いらないから! やめてよ!」
この幼馴染みは、議会へ殴り込んでおじさんたちの固い頭を物理的に粉砕しかねない。
ユタは顔をアリスに戻し、一通の封筒を差し出す。
「家から手紙がきた。やはりもうダメらしい」
それは二人の故郷の村がなくなるという知らせだった。
「もう氷がそこまで」
「村は捨てるが、近くの町へ全員で避難するとあった。大丈夫だ」
「そうだけど。でも」
いま、世界は氷に覆われつつある。
いつからかどこからか、異常な冷気と氷との侵食が始まったのだ。
最初は作物が育ちにくくなった。土が凍り、草木が枯れ、生き物が死に絶え、やがて氷に閉ざされる。
そんな死の土地が徐々に広がっていく。
住めなくなった土地からの難民や、不作による飢餓、そして凍死という問題が、人間社会を緩やかに滅ぼしつつあった。
原因は分からない。
議会は消極的な対処と無根拠な楽観視を続けている。春になれば、と毎年繰り返すばかりだ。
けれど、何度春を迎えても、氷が溶けることも寒さが緩むことも一切なかった。ひたすら冷化が広がり、悪化していく。
このままいけば、どこにも人が住めなくなるのもそれほど遠い先の話ではないだろう。
これほどの異常が要因もなく起きたとは考えにくい。なにか原因があるはずだ。
アリスは一人で図書室へ籠った。
いや、正確に言うと、なぜかユタも一緒だった。でもユタはアリスの横で筋トレをしていただけで手伝っていたわけではない。ノーカンでいいだろう。というか、その間の騎士の仕事はどうしていたのか。
ともかく、アリスは膨大な資料を精査して、気になる伝承を見つけ出した。
ほんの僅かな手掛かり、でも糸口になりうるものだ。
しかし解明と解決のための調査団派遣は、あっさりと却下された。そんなあやふやな話に割く余力はない、という理由だ。
故郷のみなの顔が浮かんだ。その故郷も氷に飲まれてもうなくなる。
「だったら、勝手に自分で調べるしかないじゃない」
アリスはきゅっと唇を引き締めた。諦めは悪いほうだ。
***
氷が礫のように吹き荒れている。ひどい嵐だ。
「何度か派兵もして、一応原因を調べようとはしたらしいな」
前を進むユタがなにか言っているが、アリスはそれどころではない。
氷は容赦なく頭に、顔に、肩に、体にまとわりついて積もっていく。口を覆っていてもなお、吸い込む空気の冷たさが胸を刺してきた。
うかうかしていれば、外も中も氷に覆われた彫像になってしまうだろう。
「結局なにも分からずじまいか、そもそもほとんどが帰ってこなかったらしいが」
確かに調査団を出せないという議会の言い分も、仕方ないと言えば仕方なかった。
この暴風雪のなかを進むことなど、普通はとてもできない。
「で、方向はこっちで合ってるのか?」
「合ってる」
アリス一人だったなら、とっくに力尽きていただろう。アリスを
思えば今回だけではない。アリスが魔術師となるため一人で村を出ることになったときも、この友は勝手についてきた。
魔術の才能と努力を認められて首都に招かれたアリスとは違って、行く先にはなんの当てもなかったはずなのに。ほんの5年前、けれど今よりずっと子供だったときに。さも当然という顔をして。
そういう奴なのだ。ずっと、いつも。
嵐を割って進む大きな背は、それでもさすがに苦しいだろう。
「ユタ、大丈夫?」
首を巡らして振り向いた幼馴染みの眉と睫毛から氷の粒がきらめいて落ちた。
「ああ。厚手の外套を着てきたからな」
平然と返してくるが、そういう問題だろうか。ユタの陰に守られているアリスがあまりの寒さと疲れで朦朧としつつあるのに。
「で、この上にはなにがあるんだ?」
二人が進んでいるのは、広がり続ける氷の死地のほぼ真ん中になるであろう山だった。
かつては霊峰と呼ばれた高い山だ。
「昔の、魔人戦争のときの烽燧台」
「ホウスイダイ?」
「狼煙をあげる施設」
「ああ。魔人戦争ってのは、あれか。じいさんのじいさんのじいさんのころ、攻めてきた魔人と戦ってたっていう」
「そう。この山の頂きに、ひとつあるはずなの」
「ふうん。それがなぜ?」
「詳しいことは、行ってみないと分からないんだけど」
かつてそこでなにか強大な魔術が行使されたという記録があった。
どんな魔術をなんのために行ったのか詳細は残っていなかったが、古の魔術が災厄の引き金となっているのかもしれない。
「じゃあ山頂を目指せばいいわけだな」
「うん、お願い」
しかし、頂へ向かって進めば進むほど、アリスの胸中には不安が押し寄せる。
辺りは吹きすさぶ氷雨で視界が利かず、頭上には氷と雪をもたらす曇天が垂れ込めている。その嵐の中に荒れ狂うような怨嗟を感じるのだ。
果たしてこれは、ただの魔術の暴走などであろうか。
***
そろそろ山頂が近い。ユタは埋もれるほどの氷と雪を剣で掻き分けて進んでいる。
こういう仕事は得意だった。人より頑丈で、膂力に優れる自覚もある。アリスからは「どこへ常識を置き忘れたの!?」などと言われるが、そもそもユタにはアリスの言う常識がよく分からない。それは好いた女を守る以上に大事なものなのだろうか。
アリスはユタの後ろを懸命に付いてきているが、彼女の限界も近い。急がなくては、と思う。
立ち塞がる氷を割ったとき、急に嵐がやんだ。視界が開ける。
「お、山頂だな」
それまでの暴風雪が嘘のような、静けさに包まれた不可思議な空間だった。
後ろから来たアリスが微かに身を震わせる。空気が極度に張り詰めている。ただ凍てついたものではない、妙な緊張感をユタも感じる。
アリスが青い唇で呟きを漏らす。
「……聖域が展開されてる」
「聖域っていうと、あれか。なにかを守るために張るやつ」
魔術に詳しくはないユタも騎士の仕事で見たことがある。高度な守護を目的とした儀礼術式のひとつだ。
まあ、ユタ自身は聖域を張るより破るほうが得意で、高度な守護がそんな簡単に破れていいのか心底不思議に思えたので騎士団長に聞いたら頼むからお前は聖域に近づかないでほしいと懇願されて、以来近くで見たことはない。
アリスが見立てた通り、過去にここでなにかあっただけでなく、今もなお守るべきなにかがあるのだろう。
すぐ先の切り立つ頂きに烽燧台はあった。
黒い石で作られた、柱と丸天井からなるドーム型の大きな建物が、すっかりと氷に覆われて建っている。
近づこうとするアリスの前に出て、ユタは剣を構えた。
なにかいる。
すべてが凍てつく死の世界。
そこに男が一人たたずんでいた。
「――ほう。よく来たな」
驚いた表情で歓迎らしき言葉を男は吐いた。
こんなところに平然としているのは、どう考えても尋常なやつではない。
即斬り捨てるべき。動こうとしたユタの腕はアリスに掴まれた。
***
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