第6話 祈る女

 どおん。

 夏の夜に散って咲くのは、大輪の花。刹那的でもあり暴力的でもある色とりどりの花は、パチパチ、キラキラと、一瞬の命を目一杯楽しむように爆ぜて、踊って、散り落ちてゆく。

 夜空は自分たちの独壇場。そう言わんばかりに星も月もかき消して、澱む煙の白でさえ舞台を彩る脇役となる。


「あぁ……今年も綺麗ですねぇ、おじいさん。ちゃんと見えてますか?」

「……」

「あ、ほら! おじいさんの好きな菊の花火ですよ。あんなに大きく咲いて、すごいですねぇ」


 最後に花火を見てはどうかと夏目が提案した時、女は線香花火のようにパッと顔を輝かせて控えめに笑った。

 何かあればすぐに対処できるよう、けれども二人きりの最後の時間を邪魔しない距離で橘たちは老夫婦の様子を見守っていた。


「間違っても、まだシャッターは切るなよ」

「そんな無粋な真似はしません」


 夫婦に向かってカメラを構える夏目に橘が釘を刺す。マガモノを視る夏目の右目は、カメラをのぞいてシャッターを切るとマガモノをこちら側に引きずり出すことができるのだ。いま夫婦の写真を撮れば、男の体に寄生しているマガモノが姿を現してしまう。そうなってしまえば夫婦の大事な時間が台無しだ。

 けれども夜空の花を見つめる女の顔はとても幸せそうで、せめてその表情は残してやりたいと思ってしまった。


「マガモノが人の記憶を取り込んで、結果その人自身みたいに振る舞うことがあるんですかね」

「さぁな。マガモノについてはマ研の奴らの方が詳しいだろ。今度会ったら聞いてみろ。聞いたら報告忘れんなよ」

「さりげなく僕に仕事押し付けてません?」


 マ研とはマガモノ捜査研究所の略だ。科捜研より認知度ははるかに低いのだが、特務零課が公に捜査をしていないことを考えると、マ研の存在が薄いのも頷ける。


「俺たちと同じで、マガモノにも個性がある……のかもしれない」


 夏目の右目に映るマガモノは、初めて男を見た時からずっと穏やかだ。元々弱い個体だったのかもしれないが、夫婦揃って花火を見上げるその姿に、優しい可能性を信じてみたくもある。

 そう思ってしまうほどに、ファインダー越しの男の顔は幸せそうに映った。



 ***



 花火大会が終わったあと、橘たちは老夫婦の住む一軒家を訪れていた。玄関先には黄色や紫色の花が鮮やかに咲いており、家自体は古いがこまめに手入れされていることが見て窺えた。

 家の裏にある小さな庭に通されると、そこにも淡いピンク色の庭木が植えられていた。何の花かわからない水原の隣で、橘が「サルスベリか」と呟いている。顔に似合わず花に詳しい橘は、やっぱりガーデニングが趣味なんだろうな、と水原は心の中で思った。


「本当に見るんですか?」

「だめでしょうか?」


 女のそばには、ガーデンチェアに腰掛けたマガモノ憑きの男がいる。特に暴れる様子もないので大丈夫だとは思うのだが、橘は女の申し出を素直に聞き入れることはできなかった。


 最後まで見届けたい――と、女は夫の顔を見つめながらそう言った。


「だめっつーか……あんまり気持ちのいいもんじゃありませんよ」


 マガモノを認知している一般人は少ない。死体に寄生する蟲というだけでもおぞましいのに、今回は女にとって大切なひとに巣くう蟲退治だ。夫の体から引きずり出される蟲と、そして再び死んでいく夫をわざわざ目の当たりにしなくてもいいのではないか。

 橘なりに女を気遣ったつもりだったが、当の本人は淡い笑みさえ浮かべて「大丈夫です」と言いきった。

 結局橘の方が根負けして、マガモノ退治は女の目の前で行われた。


 夏目が深淵の右目で男を、カメラのシャッターを切る。男の体から滲み出たマガモノは思っていたよりも小さく、橘が用意していたミニ熊手が役に立った。

 べちゃり、と地面に落ちたマガモノは、まるで死にかけのナメクジのように元気がない。水原が塩の入った袋を手に近付くと、それを見ていた女がそっと近付いてきた。


「私も、いいですか?」

「え? えっと……」


 どうしていいものかと判断を仰げば、橘が仕方なさそうに頷く。


「一応、あんまり近付かないでくださいね」


 そう注意して、水原は女の皺だらけの手に塩を乗せてやった。

 先に水原がマガモノに塩を振りかける。いつもは容赦なく豪快にぶちまけるのだが、今回はなぜか右手に塩を掬い取って丁寧にかけてしまった。女の見ている手前、何となくそうしなければならないような気がしたのだ。


 水原がかけた塩によって、マガモノがじわじわと溶け始めていく。その様子を見て少しだけさみしげに目を細めた女が、手にした塩をそっと静かに振りかけた。そして両手を合わせて祈るように目を閉じる。


「今まで、どうもありがとうね。あなたのおかげで、さみしくなかったわ」


 マガモノは声を出さない。ただ一度だけ女の方へ伸び上がるように動いて、そのままゆっくりと溶け落ちていった。


 死体に寄生し、その体を弄ぶ蟲マガモノ。それに意思や本能といったものがあるのかどうかは、まだ謎に包まれたままだ。なぜ死体に寄生するのか、その理由も明らかにはなっていない。

 特務零課にとってはただの討伐対象で、それは今後も変わらないだろう。けれど人に害を及ぼさなければ、マガモノの憑いた腐らない死体は、残された者の心の拠り所に成り得るのかもしれない。

 夫の体に憑いたマガモノに、手を合わせて感謝を告げる、この女のように。


「せっかくなんで、一緒に写真を撮りませんか?」


 マガモノの剥がれた男の体は、時の流れに戻って再び死んでゆく。その前にせめて最後の一枚をと、夏目が女に手を差し伸べた。

 薄桃色のふわりとした花を咲かせるサルスベリの下。ガーデンチェアに腰掛けた男は、まるで眠っているように穏やかな顔をしている。その隣に立って、女は少し傾いた男の頭部を自身の方へいだくように引き寄せた。


 愛おしげに、さみしげに。

 儚く微笑む女の頬に、ひとすじの涙がこぼれていった。



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