第5話 帰ってきた夫

 辺りがようやく薄闇に包まれはじめた。

 天川あまかわの河川敷は隙間を見つける方が難しいほどに人で埋め尽くされており、夏の蒸し暑さとは違う熱気に包まれていた。あまりにも人が多いので、橘は河川敷自体が沈んでしまわないか不安になってしまった。

 悪い想像をしてしまうのは、去年の事故が頭を掠めるからだ。そんな橘の思考を読み取ったように、会場に設置されたスピーカーからアナウンスが流れてくる。


『花火が終わったあとは係員の指示に従い、有料席のお客様から順番にお帰り頂くよう、ご協力をお願い致します』


 アナウンスが途切れ、女性が小さく息を吐いた。


「ちゃんと対策を練ってくださって良かった。去年みたいに人でごった返していたら、また誰か、この人みたいに川に落ちてしまうかもしれないもの」

「田中さん。もしかして去年の事故で川に落ちたまま、行方がわからなくなっていたのは……」

「えぇ。夫です」


 呟いて、女性が夫の手をそっと握った。


 去年の花火大会が終わったあと、河川敷は帰る人の波でごった返してしまい、数十人が足を滑らせて川に転落した。それに驚いた人たちが逃げたり立ち止まったり、あるいは救出に向かったりと、河川敷は大混乱に陥ったのだ。

 照明も設置はされていたが、夜の川は暗く、落ちた数十人のうち一人が死亡。そしてもう一人は行方不明となり、その後の捜索でも遺体はついにあがらなかった。


「この人が川に落ちてから一週間後の夜、寝ようとしていたら玄関を開けようとする物音がしたんです。最初は強盗かと思ったんですけど、夫の声で『ただいま』って、聞こえたものですから」

「疑いもせず、家に上げたんですか?」


 その口調が少し強めに響いたものだから、水原が慌てて橘のスーツの裾を引っ張った。


「もちろん最初は驚きました。それに、夫がもう生きていないことはすぐにわかりました。……体が冷たいままなんです。話もうまく噛み合わなくて。――でも、うれしかったんです。帰ってきてくれて、私……とてもうれしかった」


 女が隣に座る夫の顔を愛おしげに見つめる。けれど男の視線は、もうずっと川の方しか見ていない。自分が亡くなった場所を体が覚えているのか、あるいは中に宿るマガモノが川へ帰りたいと思っているのか。どちらにしろ、男はもうろくに言葉も喋れないので、何を考えているのかは何ひとつ伝わらなかった。


「去年の花火大会、ここで約束したんです。また来年も一緒に見に来ようって。だから今日、どうしてもここに一緒に来たかった。――これを最後にしようと思って」


 女の元に戻ってきた男は、最初は今までと変わることなく生活していたという。けれども次第に会話はぐっと減り、一日の大半を部屋の隅で過ごすことが増えた。

 会話はそれなりにできていた。くだらないテレビ番組を見て、一緒に笑ったりもした。それがだんだんと希薄になっていることに気付いたのは、半年経った冬のことだった。


 話しかけても反応が薄く、目の焦点も合わないことが増えた。少ない体力を温存するかのようにベッドから起きてこないこともあり、二月は丸々ひと月も眠ったままだった。

 ようやく起きてからしばらくは調子が戻ったように思えたが、春が来る頃には、もう会話らしいものは何も出来なくなっていた。


「あぁ……もう、終わるんだなと思いました。紛い物でしたけど、それでも私には確かに夫との時間でした。私がちゃんとさよならを言えるようになるまで、待っていてくれたんですね。……優しい人でしたから」


 マガモノに、人に対する情のようなものがあるのかどうかはわからない。まだ謎に包まれている部分が多いのだ。もしかすると亡くなった者の記憶を取り込んで、本人らしく振る舞うことがあるのかもしれない。あるいは憑いた者の体が今回のように高齢で弱いと、マガモノの力を存分に発揮できないということも考えられる。

 理由がなんであれ、今回のマガモノが一年ものあいだ女性に危害を加えなかったことは不幸中の幸いといえよう。


 だが、所詮はマガモノ。

 未知の蟲であるがゆえにまだ共存は難しく、橘たち特務零課にとっては討伐対象だ。


「今回我々に連絡をしたということは、……そういうことで構いませんか?」

「私には夫に何が起こっているのかわかりません。警察に相談したらあなた方を紹介されました。……夫を安らかに導いてくださいますか?」

「それが仕事です」

「……では、よろしくお願いします」


 そう言ってお辞儀をした女は、夫の冷たい手をずっと握ったままだった。



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