第2話 写真に写るモノ

 青色。桃色。紫に白。

 生前この屋敷に住んでいた者は、紫陽花の色を丁寧に管理していたのだろう。土壌が酸性なら青色の紫陽花が咲く。広い庭園に美しいグラデーションを描く紫陽花を見れば、家主がどれほどこの庭を大事に手入れしていたのかが窺える。


 しとしとと降る雨粒を受けて、より輝く紫陽花の花。

 息を呑むほどに美しい庭は、けれど寂れた廃村の中では異質にも見えてしまう。

 誰も愛でる者のいない紫陽花の庭園。その奥に、同じく誰にも見てもらえないのに一人で踊る女の姿があった。


「うふ……うふふ。きれい、きれい。お花、きれい。あたし、も……きれい」


 雨に濡れるのも構わずに、薄紅色のワンピースを翻してくるくる、くるくると回っている。濡羽色の髪がべっとりと張り付いた、血の気のない顔がこちらを向く。輝きのない瞳が、庭の手前で佇む夏目の姿を確認したかと思えば、女の首があり得ない角度で真横に折れ曲がった。


「あたし、きれい?」

「……まぁ、それなりに」


 異常な光景を前に少しも動揺することなく、夏目は手にしたカメラを持ち上げる。ファインダーをのぞくのは、女と同じ輝きのない漆黒の右目だ。命の輝きを失った右目で視ることができるのは、人の目には映らないマガモノ。


「あなた、同じにおいがする。あたしと同じ。何で? おかしい。半分ずつのにおいがする」

「別におかしいことでもない。俺は一回死んでる。そん時に半分憑かれただけだ」

「死に損ない。半分、めずらしい。どっち? あなた、こっち? それともそっち? こっちなら仲間。あたし、あなたとつがいになる。うふ、ふ……あたし、綺麗言ってくれた。あなた、すき」

「悪いが、俺は死体とヤる趣味はない」


 夏目の言葉に同調するように、カメラのシャッター音が響いた。


「ギャアアッ!」


 女が叫ぶ。髪を振り乱し、くるくる、くるくると踊るように雨にぬかるんだ地面をのたうちまわる。泥に汚れた薄桃色のワンピース、その胸元がぐうーっと押し上げられ、布地を破いてゼリー状の太い物体が姿を現した。

 半透明のぐにゃりとした、蛇に似たモノ。目も口もなく、生き物であるかどうかも疑わしい姿は、まるで子供がこねくり回して遊びつくしたスライムのようだ。


「夏目! お前、一人で先走るなって何度も言ってんだろ!」

「うわっ。何ですか、あれ。キモっ!」


 紫陽花の小道の向こうから現れた橘は、片手になぜか備中鍬びっちゅうぐわを持っている。水原は塩の入った袋を両腕に抱きしめながら、地面に蹲る女を橘の後ろという安全圏から覗き込んでいた。


「あ、橘サン。遅かったですね」

「どの口が言ってんだ! あんまり勝手するとその目ん玉くり抜くぞ」

「それで困るのは俺じゃないんで大丈夫です」

「あぁもうっ、どうして俺の部下はこんなんばっかりなんだよ」

「橘課長、ひどいです。僕はまともですよ!」

「そう思うんならキリキリ働け。行くぞ!」


 スーツ姿に備中鍬という異様な姿の橘が、夏目を追い越して女の前に立つ。女は夏目にシャッターを切られた時から、ずっと地面をのたうち回っている。その姿は糸の切れた人形のようで、体が跳ねるたびに力を失った手足がびちゃびちゃと泥水をかき回していた。


「ホトケさんを弄ぶなんざ、褒められたもんじゃねぇぞ」


 女の胸元で半分だけ体を出したまま蠢いているマガモノめがけて、橘が手にした備中鍬を力一杯振り下ろした。蟲の悲鳴はなく、ただ女の体だけが大きく上下に揺れる。


「いい加減、体を返しやがれ……っ!」


 備中鍬の三叉になった刃に絡み取られたマガモノが、ずるりと女の体から引きずり出された。


「水原!」

「はいっ」


 橘の合図に、水原が手にした塩袋をマガモノめがけてぶちまける。塩と泥水と雨を辺り一面にばらまきながら、マガモノが激しく身を捩らせて転げ回った。ゼリー状の体にまんべんなく振りかけられた大量の塩に逃げ場を奪われ、やがて動きは緩慢となり、そしてマガモノはあっという間に溶け落ちてしまった。


「……終わったな」

「何か、ナメクジみたいでしたね。塩で死ぬなんてあっけないというか……」

「特殊な能力でぶった切るとか、そう言うの期待してたのか? 漫画の見過ぎなんだよ」


 マガモノの動きを封じた武器、備中鍬を水原に預けて、橘はさっき放り投げた傘を拾い上げると胸ポケットから湿気った煙草を取り出した。


「現実なんてこんなもんだ。普通の人間の俺らにとっては、備中鍬が聖剣なんだよ」

「聖剣って言う辺り、橘課長も漫画好きですね?」

「るせぇよ。それより夏目はどこだ? ったく、目を離すとすぐどっか行きやがる。猫か、あいつは」

「夏目先輩なら……あそこに」


 水原の指差す先、紫陽花の下に屈み込む夏目がいる。器用に傘を肩に置いて、両手で支えているのはマガモノに憑かれていた女の死体だ。

 マガモノが離れた今、死体の時間は再び流れはじめる。止まっていた分だけ急速に流れていく時間に体が変化する前に、夏目には最後の仕事が残っていた。


 雨の中。濡れる紫陽花をバックに、女の体をそっと座らせる。体の重みで潰れた紫陽花が、まるで華やかな椅子のようで。


「いいね。とても綺麗だ」


 あまくささやいて、シャッターを切る。紫陽花に弔われた女の体に、もうマガモノの影はどこにも見えなかった。



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