枇杷

大垣

枇杷

 良介が一軒家を買ったのはもう七年ほど前になる。

 家の購入はおそらく良介の人生で一番高いであろう買い物だった。当時の年齢では、比較的に早い踏ん切りの付け方だったかもしれない。しかし良介の勤めている会社は名前を言えばその地域のほとんどの人間が聞いたことのあるような大きな会社で、実入りはそこそこ良かったし、自分の仕事も安定した軌道に乗っていたのでそこまで頭を悩ませることはなく、ローンを組んで、購入に踏み切った。

 家は庭付きの二階建ての木造住宅だった。すでに築三十年が経っていたが、それは良い「醸し」のようなもので、良介は現代風のスマートフォンみたいに角ばった家よりそういった瓦屋根の少し年季の入った家を好んだ。

 坪数もそれなりにある。車社会の、とても都会とは言える場所ではなかったので(それでも生活するには十分過ぎた)、土地面積が広くとも相応の値段で済んだ。バス停までも歩いて行ける上、駅までのアクセスもあった。

 良介はこの家の丁度良い雰囲気が気に入っており、買ったことに満足していた。良介はこの家に帰れることが好きだった。

 この家には、もう一人住人が居る。良介は独りでこの家を買った訳ではない。

 良介には同い年の妻がいた。妻の名前は加奈と言った。良介は加奈と二人で相談をし、家を買ったのだった。


 加奈と知り合ったのは高校生の頃まで遡る。良介にしろ加奈にしろ、二人は交友関係は広く持たないタイプだったのもあってか、初めてクラスが一緒になった時は互いに全く眼中に入らない存在だった。自分が主人公だとすれば、お互いに「脇役A」とでも言えるような希薄な関係だった。

 しかし加奈はある時から友樹と言う男と付き合い始めた。友樹は友達の少ない良介の小さな頃からの親友である。良介は友樹が加奈という女と交際しているのは当然知るところとなり、初めて自分のクラスにそういう女がいたことを認識した。

 良介と友樹は小学生の頃からよく一緒に遊んだ仲だった。友樹は内気気味な良介に比べれば明るく気さくな性格だった。しかし単なる騒ぎ立てるような風ではなく、冗談には独特なセンスがあって、良介と会話の波長や趣味も合った。良介はあまり自分を出す質ではなかったが、友樹の前では自然体で居られた。

 一方で加奈は静かな性格で、いつも教室の隅の方で課題か何かをやっていた。友達も少ないようで、良介は、加奈が教室で喋っているのを見たことがあるのかさえはっきりしなかった。

 はじめ、どうして友樹は傍からみれば地味な加奈に目を付けることができたのか分からなかった。しかし実際に友樹を通して話してみると、加奈の顔立ちは端正なもので、喋り方にも日本的な慎ましい可愛らしさがあった。友樹と付き合うようになってからは笑顔もよく見せ、口数も増えた。

 大方、良介の教室へ遊びに来たりする都度に目に留まったのだろうと良介は考えた。

 加奈と友樹はとても仲が良くみえ、短い休み時間でも友樹が会いに来ていたし、よく二人で一緒に帰っていた。

 良介は当時加奈に対して好印象ではあったが、特別友達になる気もなく、何ら恋愛感情の類も持っていなかった。むしろ親友である友樹が加奈と付き合うことによって幸福で居られていることの方が良介にとって嬉しかった。もし加奈が友樹を裏切ったり悲しませるようなことがあればそっちの方が苦しかった。


 良介と友樹と加奈の三人は高校卒業後、それぞれ別々の進路を進んだ。良介は地元を離れて大学に進学し、友樹は消防士になった。加奈は看護学校に行った。

 良介が再び加奈と会ったのは二十歳の中学校の同窓会の時で(三人とも同じ中学校だった)、たまたま式の後の宴会の時に席が近くになり、話すことになった。近くに友樹の姿はなかった。

良介は友樹と加奈のその後のことを聞いていなかったので、いの一番に尋ねてみた。

「友樹とはどうなったの?」

「別れた。卒業してしばらくしてから」

 加奈は得も言えない微かな苦い笑顔をして言った。まあそんなものだろうと良介はその時思った。

 友樹の話題はそれだけで打ち切りにした。あまりこれ以上聞きたいとも思わなかった。

 それから良介は加奈と初めて普通の長い会話をした。お互い会食を退屈なものだと思っていたようで話は思いの外弾んだ。これまでは友樹の彼女だということで無意識のうちにどことなく接触を避けていたせいもあって、加奈との会話は新鮮に感じられた。

 加奈からは看護学校の大変そうな事情を聞いた。卒業したら家を出たいとも言っていた。良介は口下手な方だったが、大学で勉強していた最近の映画論の話をすると、加奈も映画が好きだったらしく、思いの外興味を持って聞いていた。

「もっと聞きたい」と、加奈は言った。

「全部先生が言ってたことだよ」と、良介は返した。実際その通りだった。

 加奈とはその時に連絡先を交換して、何かにつけて話すようになった。恋人ではなかったが、良介が地元に戻って来た時は一緒に映画を見に行ったりもした。


 良介が大学を卒業して今の会社に勤めるようになると、勤務先は加奈が地元を出て働いている場所と偶然にも近くなった。そこからさらに二人は密接になっていき、良介はようやく加奈への愛情を自認し始めた。二十四歳の時に加奈と正式に付き合い始めると、良介はもうこのような女は自分の前に現れないだろうと考えた。しばらくの同棲を経てから、二十六歳の時に結婚を申し込み、その二年後に家を買い、七年の月日が経って今に至る。

 加奈と付き合い始めたとき、当然の如く良介は友樹へとその事を伝えた。良介は元より根が真面目で、それをしなければどこか落ち着かなかった。

「加奈と付き合うことになったんだ、多分結婚する」と良介は電話で伝えた。

「構わないよ。もう俺にはあまり関係のないことだ」と友樹は答えた。

 友樹が交際している時に奪った訳ではないのだから、それは当たり前と言えばそうだった。それでも良介の心には背徳とも悪ともつかない奇妙で小さなしこりのようなものは僅かに残り続けた。

 しかし、それも長い年月と共に次第に消え失せていっていた。


 六月も中頃になる。田んぼでは蛙たちが鳴き続け、玄関には蝸牛が我が物顔で這い、弱い雨が相変わらず降り続いていた。

「どこにも行けないね」と、加奈が料理本を眺めながら言った。

「雨だからね」と、良介は寝転んでテレビを観ながら返した。

 何処かに行きたいとか行く予定は特にない。ただ何処にも行けないということだけは決まっている。

「先週も雨じゃなかった?」

「そうだね、でも仕方ないよ」

「雨は嫌いじゃないけど、あんまり長いと嫌ね」

「本を読むには良い」

 良介と加奈は昼時になるまでそうやって無気力に会話をしたり録画したテレビを観たり本を読んだりしながら過ごした。

 簡単な昼食を取り、片付け終えて午後になると、良介は立って外の庭を眺めた。

 庭は、この辺りにしては別段大きくもないが、丁度良いほどの広さはある。

 芝生には大きめのテント一つぐらい十分立てられるし、バーベキューも出来る。それとは別に小さく畑を作って葱やトマトのような野菜も植えている。目隠しのように金柑や紅葉などの低木や植え込みが何本かあり、それから物置がある。

 良介と加奈はこの庭が好きだった。良介はよく窓際に座って本を読んだり、疲れた目を癒すのに使っている。加奈は綺麗に花を植えたり、羽休めや虫を啄みにくる鳥を観察したりしている。

 

「あれ、雨、もうほとんど降ってないよ」

「本当。止んだのね」

「うん。散歩にでも行こうかな」

「すぐにまた降るかもよ」

「いや、行くよ。遠くには行かない」

「じゃあ私も行く。どこまで?」

「池のほうかな」

 良介と加奈はそそくさと身支度をし、家を出た。雨は確かに止んでいる。

 良介の家の近所には池がある。低い山の側に造られた人工の池だったが、綺麗に整備されカフェや公園、イベント広場なども併設されている。大きさもあり、一周ぐるりと歩くと散歩には丁度良かった。 

「人が案外いるね」と、池に着くと加奈が言った。

「みんな、今出てきたんじゃないか。雨が止んだから」

「そんなことあるの」

 さあ、と良介は言った。確かにさっきまで雨が降っていたにしては人がいる。老夫婦や、ランニングをする若者がいる。犬を散歩させている少女がいる。二人はそれらを追い越し、追い越されながら歩いた。

 池の丁度半分の辺りに差し掛かると、ある子供連れに追い付いた。若い母親と、帽子を被った小学生ぐらいの男の子だった。男の子は池にいる鯉かなにかを見たり、母親にじゃれついていたりしていたが、にわかに近くの丘にある遊具に向かって跳びはねながら走り出した。

「いいね、元気そうで」と加奈はそれを見て言った。

「子供だもの」

「やっぱり男の子が良かったな」

 良介は唐突な加奈のその言葉に、何も返さなかった。幾通りかの言葉の群れが脳内に現れたが、それらはどれも適していないように思えた。

 良介はあまり咄嗟に気の利いたことを言える方ではない。だから良介はそういう時はいつも黙ったままだった。自身はそれを良くないと思ってはいた。それに対し加奈がどう感じているかは分からない。


 良介と加奈の間には子供が出来なかった。

 これまで何度も加奈は子供を欲しがったが、そのどれもが望んだ結果にはならなかった。良介の機能になんら問題はなく、加奈は治療を行っていた。しかし、改善する徴候は見られなかった。

 それが判明した時、仕方ないか、と加奈は笑って言った。しかし、良介にその心持ちを軽率に推し量れるものではなかった。加奈は気にしない風を装ってはいたものの、そのことを心の深いところで感じているものが確かにあった。それは普段水底に沈めているのだが、ちょとした拍子に、水面下にふっと浮かんでくるのだった。

「ごめん」と加奈は言った。

「いや、何も悪いことはないよ」

 良介はそう返した。

「僕たちは現状に対してやれるだけのことをやった」

「でも、うまくいかなかった」

「それは……神様が悪いかもね。ごめん、何て言ったらいいか分からないんだ」

 当然、良介も子二人の間に子供が出来ないことは悲しかった。しかし、男と女ではその悲しさに違いがあるような気がしてならなない。

「いいの。ごめんね」

「たまには別の道を歩いてみようか」良介はそう提案した。

「そうね。それもいいかも」

 良介と加奈は池から少し外れ、奥まった人通りのない細道を歩いた。

「あまりこっちには来たことなかったな」

「うん、こんな道あったんだね」

 二人は古い民家の間を歩いた。そこを抜けると、大きな寺に辿り着いた。

「へぇ、知らなかったな。こんなところに」

「結構立派なお寺さんだね」

 良介はうろうろとそれを眺めて見たが、その境内の脇に、山の上へと繋がる階段を見つけた。山とは池の周りを取り囲んでいる山である。二人はその下に立った。

「登ってみようか」

「長いよ」

 上を覗くと、確かに長い。それに急である。人一人が通れるぐらいの、両脇に草木が突き出した、所々崩れている石階段だった。良介はその様子が気に入った。

「ゆっくりね」と加奈が言った。

 良介は加奈に合わせて階段を上がっていった。ゆっくりと登っても、息が少し上がる。静かで、葉が揺れて擦れる音だけがした。

 しばらく行くと、紫陽花が左右にいくつか咲いている。丸く大きく花を付けた、堂々とした紫陽花だった。さっきまでの雨の露気を帯び、透けるような紫をしている。

「凄い。綺麗だ」

「本当に立派。こんなところにあるなんて、誰も知らないんだろうね」

「前を歩く?」と良介は加奈に言った。

「いいよ」

 良介は加奈を前に行かせた。

「本当に綺麗」と、加奈は紫陽花の花に近づいた。

 加奈の滑らかな横顔はその紫陽花と、草木の茂る石階段にとても合っていた。美しい額縁にぴったりと調和している絵画ようだった。

 良介がその様子に見惚れていると、

「もうすぐ枇杷が成るかしら」と加奈が呟いた。

 良介は、それが何のことかすぐに分からなかった。


 良介の家には枇杷の木が植わっている。家を買った七年前に、良介と加奈が二人で苗木から植えたものである。

 良介は幼い頃に食べた枇杷が気に入り、その話をしたところ加奈が苗木をどこからか買ってきてくれたのだった。

 良介はそのこと全くもって忘れていた。

「よく覚えてたね」と庭に生えた枇杷の木を見て良介は言った。

「枇杷は実がなるのに時間がかかるの。七年とか八年とか。六月のこの頃が時期だから、最近よく見てたんだ。ほら、実ができてるよ」

 枇杷の木はなるほどよく伸びている。家の軒先は越えている。いつの間にこんな大きさになったのだろうか。石楠花に似た細長い葉と、よく見るとオレンジ色の果実が確かに垂れている。

「枇杷を植えてから、つまりこの家を買ってから、七年も経っていたんだな。結婚したのも、もう随分昔かもしれない」と良介は言った。

「私たちが出会ったのはさらにもっと前。高校生の時だよ」

「友樹には感謝しないと。君が友樹と付き合っていなかったら、こうしていないかもしれない」

「そうね」

 加奈はそう言うと、窓を開けて庭へ降りた。

「収穫する?」

「うん」

 良介も続いてサンダルを突っ掛け、庭に降りた。ふと、良介が空を見上げると、また鈍重な雲が覆い被さっている。

「立派な実じゃないか」

「よく成ってるね」

 加奈は三つ四つぶら下がった実のうちのひとつを、もぎり取った。良介もひとつ、捻り取った。

 枇杷の実にはさらさらとした白い産毛が生えている。放っておいた割には、良い出来かもしれない。良介はそれを指で回し撫でた。

 鼻に近づけると、強すぎない、優しい甘さが薄い皮の向こう側から漂ってくる。

 その時ぽつりと雨が手に当たった。

「おっと、また降ってきそうだ。中へ入ろうか。早速こいつを食べてみよう」

 良介が枇杷の実を手にしたまま戻ろうとしたが、加奈は動かない。同じく枇杷の実を、じっと両の手の中で持ち、それを見つめていた。

「加奈? 雨が降るよ」

「埋まってるの」と、加奈がぼそりと言った。

「え?」

「埋まってるの。この下に」

 良介は、脈絡のなさに、加奈が何を言っているのか分からない。

「埋まってる? 何が? 何か埋めたの?」

「こども」

 加奈は確かにそう言った、気がした。

「え? 何て言った?」

「そう。私の子供がここに埋まってるの。私が埋めた。七年前、この枇杷を植えた時に一緒に埋めた」

「加奈、何を言ってるんだ」

 良介の思考は突如として混乱した。変な笑いが、顔に出てしまった。加奈の唐突な言葉が冗談なのか、本当のことなのか、聞き間違いなのか、どの反応をしていいのか分からない。

「何を……」

「だから、子供を埋めたって言ってるの。私の子供を、私の手で、ここの枇杷の木の下に埋めたの。七年前、この枇杷の苗木を植えた時に。全部本当のこと」

 加奈は今後ははっきりとそう言った。良介も、その言葉をしっかりと聞き取れた。

「本当なのか」

「本当。ずっと黙っていてごめんなさい」

 良介は到底信じられなかった。まだ冗談だと疑っていたかった。しかし冗談にしては余りにも行き過ぎていた。加奈は普段から、冗談でそんなことを言うはずがない。

 良介は枇杷の実を持ったまま、立っていることしか出来なかった。しゃがみこんだ、加奈の背中をただ眺めた。言葉が出てこなかった。しかししばらくして、ようやくある質問が浮かび上がった。

「だとしたら……それは僕の子供ではないはずだ」と、良介は言った。痛みと恐怖を伴う質問だった。

「そう、友樹の子供」

 友樹。とっくに加奈とは破局を迎えたはずの旧友の名前が、なぜ今になって突如と現れるのか。だが一方で友樹の名前は、奇妙な形で加奈の話を現実味を帯びさせた。

「七年前、私は友樹との間に子どもが出来たの。でも産まれてすぐに死んでしまった。早すぎたの。お腹も大きくならなかった。あなたが気づかないぐらい。この世界に生きるにはあまりにも軽くて、柔らか過ぎた」

「それで僕に言えずに、隠れて埋めたのか」

「ごめんなさい。悪いのは私。全部私なの」

「友樹は知っているのか」

「いいえ。誰にも言っていない」

「なぜ、なぜなんだ」

「子供が欲しかった。ただそれだけ」

 そして加奈は啜り声を上げて泣いた。そして加奈は枇杷を食べ始めた。皮ごと、獣のように食いついた。枇杷の実の液は加奈の手で涙と混じり合い、地面へと落ちる。

 良介は沈黙した。沈黙したまま枇杷を貪り食う加奈の背中を眺めていた。

 誰に、何をするべきなのか分からなかった。誰を責め、誰を慰めるべきなのか考えた。友樹に罪はあるだろう。自分の妻と隠れて寝たのなら、それは確かに罪だった。

 加奈にも罪はある。過去の男と密かに寝て、子供を遺棄したのだから。そして良介にも罪はあった。長く共に過ごしてきて、加奈の悲しみを拾い切れなかった。

 そして罪は、神にもあるはずだった。

 しかしそれらを全て追求し、断罪したところで、一体誰が幸福になるだろかと、そう良介は考えた。人は幸福に向かわなければいけない。ならそれはやるべきことではない。

 この枇杷の木を切ろう。良介はそう思った。納屋にあるノコギリで、切り倒してしまおうと思った。良介の力でも、このぐらいなら切ることが出来る。もっとも、切り株ぐらいは残ってしまうだろうが。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

枇杷 大垣 @ogaki999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説