第2話『結婚-前編-』
「長瀬和真君。私の孫娘の優奈と……結婚してくれないだろうか」
おじいさんの渋みのある低音ボイスに乗せて、そんな言葉がリビングに響き渡る。
有栖川さんと結婚……か。
結婚……けっこん……ケッコン……血痕?
おじいさんの口から思いがけない言葉が飛び出してきたので、思わず頭の中が血に染まってしまった。
「よく分からないと言いたげな表情をしているね。単刀直入すぎたかな?」
「……まさか、結婚という言葉が出るとは思っていなかったので。混乱してしまいました。脳裏が真っ赤に染まったほどです」
「ははっ、そっちの血痕か」
おじいさんは朗らかに笑う。それにつられてか、有栖川家のみなさんやうちの両親も笑って、リビングの中は笑いに包まれる。
「カズ君が……結婚……」
唯一人……真央姉さんだけは笑っていないけど。顔から表情が抜けて、放心状態といったところか。姉さんは見た目はクールな雰囲気だけど、中身は結構なブラコンだからなぁ。衝撃が大きいのかもしれない。今まで俺には恋人すらいなかったし。
「和真君。君のお姉さん……大丈夫かい? 表情が抜けて、視線が遥か彼方に向いているが」
「……き、きっと、俺と一緒で『結婚』という言葉に衝撃を受けているのかと」
「なるほど。まあ、いきなり結婚と聞いたら驚いてしまうか」
「ええ。困惑もしています。……どうして、俺に有栖川さんと結婚してほしいと思ったのですか? ドーナッツ屋でバイトしているのもあって、高1の頃から何度も話したことはありますが。この4月からはクラスメイトにもなりましたが」
一度も喧嘩をしたこともないし、嫌な表情を向けられたこともない。だから、有栖川さんからの印象は決して悪くはないと思うけど。
「昨日の夕方、君は私のスマホを見つけてくれたね。そのときの君の雰囲気や話し方。私のような見知らぬ困った老人をすぐに助けてくれる優しさ。そんな君と接して、孫の優奈と結婚するのは君のような人がいいと思ったのだよ」
「そうですか。その……凄く俺のことを買ってくれているんですね」
「父が結婚とかを考えるのは……優奈が有栖川グループの娘というのもあって、高校生になったあたりから、『うちの息子といつか結婚を……』と縁談のような話を何度も持ちかけられて。全てお断りしているんだけどね」
「そうですか。いわゆる……政略結婚ですか」
令和の現代日本にそういうものがあるとは。アニメやドラマなどの創作物でしか登場しないと思っていた。お金持ちの世界では普通にあることなのかな。
「ああ。単なる政略結婚ならまだしも、調査をしたら、結婚を利用してうちのグループの資産を悪用したり、グループを失墜させたりするのを画策していた相手もいたよ」
「そうだったんですか」
お金持ちの世界……怖いな。自分達の利益のために、他社を平気で傷つけようと考えているところがあるなんて。
「そういった話を持ちかけてきた相手の男達よりも、君の方が遥かにいいと思ってね」
「そう言ってもらえて嬉しいです。もしかして、スマホを見つけた後に俺の名前を聞いたり、写真を撮ったりしたのは、有栖川さんに俺との結婚はどうかと話すためですか?」
「その通り。もちろん、君への感謝の気持ちを忘れないのも理由の一つだよ」
「そうですか」
まあ、あのときのおじいさんはいい笑顔をしていたからな。感謝の気持ちを忘れないのが本当で良かったよ。
「昨日、家族全員で夕食を食べているとき、おじいちゃんに『とてもいい青年と出会った。彼のような人が婚約者になってくれると嬉しい』と言われて。スマホの写真を見て、その青年が長瀬君だと知ったときには驚きました」
「優奈から君がクラスメイトで、2年前からあのドーナッツ屋で何度も接客をしてもらっていると知ったときには運命を感じたよ。『優奈の結婚相手は長瀬和真君しかいない!』と私は思っているよ」
「な、なるほど」
今のところ、有栖川さんよりもおじいさんの方に気に入られているな、俺。
「この2年間で、長瀬君のバイト先で何度も接客してもらったり、3年生になってクラスメイトになったりする中で、長瀬君は優しくて誠実……という印象を持っています。バイトではしっかり仕事をしていますし。マスタードーナッツでバイトしていたり、素敵な見た目だったりしますから、友達との会話で話題になることもありますし。今まで告白してくれた方達や、縁談を持ちかけてきた方達よりも好感をもっています。ですから、長瀬君なら婚約者になっていいと思ったんです。それを昨日の夜に家族にも話しました」
有栖川さんは持ち前の柔らかい笑顔でそう話す。照れくさいのか、頬がほんのりと赤くなっているのが可愛らしい。
有栖川さんから俺の印象について話されたのは初めてだ。有栖川さんが笑顔なのもあり、素直に嬉しい気持ちになる。気付けば、頬が緩んでいた。
「昨日の夕食でも、優奈は今のような笑顔で長瀬君のことを話していたわ。だから、母として優奈の婚約者にいいと思っているわ」
「あたしも同意見! それに、イケメンで優しい雰囲気だから、こういう人が義理のお兄さんになってくれたら嬉しいなって! 実際に会ったらその思いが強くなったよ!」
「父による人の目利きは優れているし、何よりも優奈が長瀬君にいい印象を持っているからね。父親としてもいいと思っているよ」
「……そうですか」
有栖川さんやおじいさんだけでなく、御両親や妹の陽葵ちゃんにも好印象だなんて。
「そこで、うちのグループで君のことを調べたら、既に誕生日を迎えて18歳になったことが分かってね」
「はい。今月の6日に18歳になりました」
「優奈も15日に誕生日を迎えて18歳になってね。2人とも18歳になったのなら、婚約者ではなく結婚すればいいじゃないかって思ったのだよ。2人の通う高校に結婚してはならないという校則はないからね。それに、君に恋人はいないようだから」
「ええ、いません。2人とも18歳だから、結婚してくれないかと言ったんですね」
今の法律では、男女ともに18歳以上であれば結婚できるから。
「ああ。結婚すれば、政略結婚を目論んだ縁談も来なくなる。それに、好意を抱いたり、フラれたりする人が、優奈に絡んだり、付きまとったりしなくなるだろうと思ってね」
「有栖川さんは学校で大人気ですからね」
今朝も男子生徒に告白されて振っていたし。
有栖川さんほどの人気があると、好きになったり、告白してフラれたりする人の中には、しつこく絡んだり、つきまとったりする人もいるか。
「俺と結婚してより過激になる人がいるかもしれませんが、多くの人は有栖川さんのことを諦めるでしょうね。縁談の方についても。……あと、今日は普段と違って俺の方を何度も見ていたのは、結婚の話があったからだったんだな」
「ええ。決定ではありませんが、長瀬君を意識してしまって」
有栖川さんははにかみながらそう言った。結婚するかもしれない相手が教室の中にいたら、何度も見ちゃうよな。納得したと同時に、気になっている相手は俺かもしれないと言っていた西山に申し訳ない気持ちが。
「和真君のことをさらに調べて、御両親の仕事やお姉さんが通う大学についても分かった。なので、今日の午前中に、君のお父さんが勤務する会社に行き、今と同じようなことを話したのだよ」
「和真次第という条件付きで父さんは話を受け入れたよ。それで、和真の学校が昼休みになった時間に大事な話があるってメッセージを送ったんだ」
「そういうことだったのか。……ほんと、大事な話だな」
結婚は人生における重要な出来事の一つだからな。まあ、有栖川家の中ではトントン拍子に話が進んでいったけど。
「……どうだろうか。長瀬和真君。優奈と結婚してくれるだろうか? 私達有栖川家はそうしてくれると嬉しいと思っている」
真剣な眼差しで俺を見つめながら、おじいさんは俺にそう言ってくる。
有栖川さんと結婚するかどうか。ここでの俺の返事次第で、俺と有栖川さんの将来が大きく変わることになる。
「……有栖川さんは俺との結婚についてはどう思ってる?」
「……昨日、家族に話したのと同じ理由で、長瀬君なら結婚していいと思っています」
有栖川さんは俺の目をしっかりと見て、彼女らしい穏やかな笑顔でそう言ってくれる。まあ、彼女が結婚していいと思わなければ、こうして長瀬家に赴くことはしないか。
あと、有栖川さんほどの美少女から結婚していいと言われたので、キュンとなる。一瞬、夢かと思ったけど、これは現実なんだよな。
「お母さんは和真の判断を尊重するわ。優奈ちゃんはとてもいい子そうだし」
「……お姉ちゃんも尊重する。優奈ちゃんなら大丈夫そうだし。まあ、寂しい気持ちもあるけど、可愛い義理の妹が2人できるしね」
「父さんも和真の決断を尊重するよ」
両親と真央姉さんが優しい笑顔でそう言ってくれる。両親はともかく、さっきは放心状態に見えた姉さんまで俺の考えを尊重すると言うとは。それだけ、有栖川さんならいいと思っているのだろう。
有栖川さんのことを再び見ると、有栖川さんは柔らかな笑顔を向けてくれる。
「……有栖川さんはとても可愛いし、穏やかで優しい女の子です。魅力的で、いい印象を持っています。結婚していいと思ってもらえることも嬉しいです。ただ、俺に有栖川さんを守れるだろうか。支えられるだろうか。幸せにできるだろうか……って思うんです。結婚していいのかなって」
情けないけど、今抱いている気持ちを言葉にする。最初こそ有栖川さんに向けていた視線も段々と下を向き、今は目の前にあるローテーブルに向いている。
「有栖川さんと交際を一切しない中で、結婚の話だもんな。それに、和真も有栖川さんも高校生だ。和真がそう思う気持ちも分かる」
「そうしたい気持ちはあるんだけどな……」
「拓也さんの言う通りだと思います。ただ、長瀬君の言葉を聞いて、長瀬君は私のことをとてもよく考えてくれているのだと分かりました。ですから、長瀬君と結婚していいとより強く思えるようになりました」
優しい口調で有栖川さんがそう言う。
ゆっくりと顔を上げると、有栖川さんはとても優しい笑顔で俺のことを見ている。俺と目が合うと、有栖川さんの口角が上がった。
「結婚してからは色々とあると思います。ただ、長瀬君には人を思いやる優しさがあります。そんな長瀬君と一緒なら大丈夫だろうと思えるんです」
「有栖川さん……」
「もし結婚したら、私も長瀬君を守ったり、支えたり、幸せにしたりしたいです。ですから、守り合ったり、支え合ったり、一緒に幸せになったりしていきませんか。それで、いつかは好き合える夫婦になりたいなと。お父さんとお母さんはラブラブですし、おじいちゃんも亡くなったおばあちゃんととても仲が良かったですから。そんな夫婦になりたいです」
可愛らしい笑顔で有栖川さんはそう話す。
英樹さんと彩さんは互いの顔を見合いながら笑顔になっていて。おじいさんも亡くなった奥さんのことを思い出しているのか、どこか懐かしんでいる様子で。3人を見ていると、今、有栖川さんが言ったことが本当なのだと分かる。
「それが今の私の気持ちです。もちろん、長瀬君の決断を尊重します」
有栖川さんは俺の目をしっかりと見ながらそう言った。
一緒に幸せになっていこうと有栖川さんが俺に言ってくれている。いつかは好き合える夫婦になっていきたいと。有栖川さんがこうして俺を求めてくれるのなら、俺は……有栖川さんのその想いに、俺なりに応えたいと思った。
一度、深呼吸して、
「分かりました。俺は……有栖川優奈さんと結婚します」
有栖川家のみなさんと、俺の家族のことを見ながらそう言った。
「おおっ! 愛しの孫娘と結婚すると決めてくれたか! ありがとう、長瀬和真君!」
とても力のこもった声でそう言うと、おじいさんは俺の左手を両手でしっかりと握ってきた。おじいさんはとても嬉しそうにしており、おじいさんの両手から伝わる温もりはかなり強い。
おじいさんが俺の左手を離すと、今度は有栖川さんが両手で握ってくる。両手から、有栖川さんの優しい温もりと柔らかさが伝わってくる。
「ありがとうございます。まずはお嫁さんからお願いします。……和真君」
有栖川さんは俺を見つめながらそう言ってきた。
まずはお嫁さんから……か。今まで交際していないから、それで合っているかもしれない。俺達らしいと思う。
「こちらこそ。まずは……旦那さんからお願いします。……優奈」
「はいっ」
優奈を初めて名前呼びしたことにちょっと照れくささを感じた。ただ、すぐに返事をしてくれたことを嬉しく思う。そして、返事が可愛らしい。
有栖川さん……いや、優奈の温もりを感じて、名前呼びをすると、彼女との関係性が変わったのだと実感する。
「おめでとう、お姉ちゃん、和真さん!」
「カズ君、優奈ちゃん、お幸せに!」
陽葵ちゃんと真央姉さんが祝福の言葉を送り、拍手する。それがまるで呼び水のようにして、お互いの両親と優奈のおじいさんが拍手をし、「おめでとう」と言ってくれる。
長瀬家のリビングが祝福ムードに包まれるのであった。
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