第10話 転換期
幸福は続いた。定期的に悪魔を呼び出し、話を聞いてもらうこともできた。儀式さえ行えばいとも簡単に現れ、好きなだけ話すこともできた。悪魔は決して聞き上手ではなかったが、話し相手としては申し分ないので直ぐに孤独は埋めることができた。いつでもそこに居て会える確かな存在とはかくもありがたいのだと改めて知る。微塵も理解できなくなったデントや姉への思い入れもその点を通せば自分が何を考えていたかは想像がつく。それでも人に固執するなど理解できないのに変わりはない。
そして、代償として失ったものも確かにあった。怖いことにその失ったものに対する認知が追いつくことは無かった。前と比べて生活が不自由になっていたのは確かだが、それを言語化できないのだ。自分の体を見渡してみても、契約の代償に対する認知を盗られた以降の物は、何をいつ失ったかも判断できない。自分の手や足を見てもそれが今あるのかどうかが頭に入ってこないのだ。自分の存在は不確かになり、そこへの関心もなぜか沸かなくなってしまった。
まあ、それが悩みであったわけではないし、生活を送るのは全く苦ではなかった。まだコレクションや儀式の趣味は続けてもいた。むしろ物的な欲と心的な欲を満たすことができた俺は今までのどの時期よりもこの人生が楽しいと感じていた。前は死んだ方が良いとまで思っていたのが嘘のように、契約によって転落どころか痛快な逆転劇を果たすことができたのだ。そうだ、これがずっと続いてくれれば良かった。
人の欲とは移ろうもので、契約の味を知り、それが人生を変えたとなれば、それに依存するのは当然の理である。今の俺にとって支えと言うか、最終的な打開策が契約にあるという事は大いに問題であったのだ。またも俺は止まらぬ欲が顔を出し、それに翻弄されて契約をすることになった。実際には契約をすることに対しての躊躇などは消え去っているが。
人生の転換期を迎えた幸福だったが、一切の後悔が無かったわけではない。俺は惰性で儀式の床を掃除していた時にふと思いついた。それは、本当は俺が心の奥底から望んでいたものだったのだ。それを晴らすべく、また大きな夢への一歩を進めることにしたのだ。
そして大欲の果てを終わらせる日を迎えさせた。考えついてから2週間ほど、特に儀式は手こんだものは必要なかったが、ゆっくりと過ごしていたのだ。早く叶えたい気持ちもあったが、焦燥感は無かった。強いて言えば幸福だし、生活自体に悩みがあったわけでもなかったからだ。その間、自分の願いが願うことを何度も夢見た。
いつもと違い、少し緊張を宿して儀式を取り行った。自分が踊らされていた欲求を振り払う大きな大きな門を開く。悪魔はいつも通り、認識できる靄としてそこに現れてくれる。
「人間よ。今回は契約をしたいということだな。」
しばしば契約以外では呼び出していたが、少し形を変えて儀式を行えば、契約をするために現れてくれるのだ。
「そうだ。これが果たせれば、今までの後悔だって全て振り払える。人生を賭けた大勝負といこう。」
契約の代償があることは理解していた。今の俺に何を失ったかは分からないが、失うことは確実なのは知っている。今までだってそれらが減らされてるとは言え、支払っていただろうから。また、前に自分で言った欲望の権化のようなものがあるとすれば、この願いと言えた。故に失うものも相当なものに違いないと覚悟もしていた。
「早速聞こうではないか。それが何なのかを。」
悪魔は俺に問う。
「俺がこの世に生きた証が欲しい。多くの人間の認知ではなく、俺自身が満足できればそれでいいのだ。」
俺が本当に欲しかったのは自分の生きた証をこの世に残すことだった。その達成があれば人生は満ち、より意味のあるものになると考えたのだ。承認欲求などではなかった。人にどう思われるかなどは問題ではない。自分自身が、生きることに十分意味のあったと思えるものがあればそれでいいのだ。
元はと言えば、姉の蘇生も自分自身の価値に気づけなかったから陥った迷いだったのだ。他者が支えてくれれば俺は輝いていられるなどと考えていたのだろう。俺は心から人生に意味を持たせたいと思っていたことにやっと気づいた。こんな風に満ちた人生を手にして、発覚する世界があることも知れた。俺が元来求めたものを理解し、それをついに満たせる時が来たのだ。この願いは大金よりも、心の拠り所よりも、価値があった。俺がここまで転がり続けてしまった要因でもあるからだ。最後の大逆転のため、俺は賭けに出たわけだ。
内容を考えたが、俺はそれをどういう形で成しえたいかには行きつかなかった。だから契約の望む結果が生まれる性質を頼ることにした。ある程度は想像を残したまま、自分の潜在意識を信じた。
「過去改変は既に行った。今回は現実の改変ということでいいな?」
過去はもう変えられないと悪魔は告げる。生きる証があったことにならないなら、よりどんな風に夢が実現できるかは想像できなかった。だが、ヴィジョンがあるためか具体的な契約でなければならないと言うルールにも背かないらしいので
「構わない。祈ろう。」
俺は天命に身を委ね、己が最大の欲を満たすために祈りを始める。何度味わったかも分からぬ快感と共に現実に亀裂が入り、そこに対する俺の記憶は本当のものとなる。またこれだ。俺が既に持ち合わせていたはずの物が、契約の内容だった。俺が変えたという痕跡は確かにそこにあったが、既に持っていたものを得ようとしたみたいで不思議な気持ちになる。俺が手にしたのは多大なる芸術の才能だった。これにより俺自身が満足のいくものを形としてこの世に残し、生きる意味を噛みしめるようになれたのだ。俺がこれほどの才能があったのに今まで何も残していなかったので、今回の現実改変は前の過去改変より理解しやすかった。もれなく、今回も喪失には気づけない。
「では、また会おう。その日が来れば。」
悪魔はそう言い、俺を元の部屋へ返した。もうこいつを契約で頼ることはないかもしれない。
部屋に戻ってから代償によって差し引かれたのは、溢れ出る金でも心の孤独を埋める存在ではないことは確かだと解った。何が持っていかれたかは皆目見当もつかないが、生活もできそうだった。それは置いておくとして、俺は自分から満ち満ちて湧いてくるこの力を使いたくて仕方がなかった。
俺はキャンバスやら絵の具やらを取り揃え、自分の神にも並ぶ創造性をそこに表現していった。数日掛けて描いたそれは、人類史にも何百年とも残るような油絵だった。最も、こんな圧巻の集大成はあんな奴らには豚に真珠も良い所だが。だから、俺だけが秘めることに決めた。それは俺が生きる意味を持ち、今までの傷だらけの人生を埋めてくれる程の大作として生誕してくれたのだ。生きていて良かった。初めてそう思えたのかもしれない。
一方、日常生活は非常に困難に感じることが多くなった。またもや、それが何故かということは一向に分からない。自分の体に何が欠落しているかも未だに判断ができないのだ。そんな漠然とした不自由さを抱えながら暮らしていくしかなかった。だが、まだ体は動くのだ。失ったものは多いかもしれないが幸せを手にし、それを楽しめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます