第6話 無価値

 俺はすぐさま悪魔を呼ぶための準備をもう一度行う。震える手で経典を捲り詠唱を終わらせる。間もなく悪魔が召喚され、俺に問いかける。

「どうした人間よ。まだ、契約がしたりないか。」

 悪魔は不服そうには見えず、契約を受け入れる体制を取ってくれた。俺はそれが嬉しかった。いま頼れるのはこいつだけだ。ここは今、この世のどこよりも落ち着ける場所だ。

「そうなんだ。この感情はとてもじゃないが享受できない。どうか、直して欲しいんだ。」

 俺はこの感覚から一分一秒でも早く抜け出したかった。しかし、悪魔は

「それは無理だ。お前は以前、回復を契約内容にし、それを行った。今回もお前の精神の回復に過ぎない。」

 と要求を跳ねのけた。普通、体と精神は別々じゃないのか。そんなの受け入れられるわけがない。

「お願いだ。耐えられないんだ。狂うどころの話じゃない。」

 はたから見ればまさに滑稽だろう。散々失った愉悦に浸り、何も失うことはないと言い、失ってはまた愚かに撤回するように懇願するにだから。

「そうは言っても物理的に不可能だ。他の願いなら聞いてやる。」

 悪魔は聞く耳持たずで、懇願には応じない。俺は必死にここから抜け出す方法を考えだす。

「では人への関心を無くしてくれ。それならば良いだろう。」

 俺は契約の結果に報酬ではなく喪失を望んだ。喪失するために何かを喪失する。これまたおかしな話だ。

「それなら良いだろう。」

 悪魔は俺の愚行を正すことなく受け入れる。この悪魔にとっては契約できるかできないか。ただそれだけが重要なのだ。俺は完全にドツボにハマる。しかし、ブレーキの壊れた俺の判断力は死よりも恐ろしい地獄へと直行していく。

「ありがたい。早速祈ろう。」

 衝撃と共に俺の人間への止めどない不信感が浄化され、代わりに一切の興味を失った。もちろん姉のこともデントのことも、死ぬほどどうでもいい。そして今回も失う。俺がずっと失っても良いと思っていた自分を。それは味覚と嗅覚だ。これによって心の拠り所である酒を呷る行為もどこか虚しいものになってしまった。しかし、待ち望んでたはずのその代償も今では割に会わない。

「俺はなぜあんな奴らのために尽力してたんだ。くそ。あいつらが居なければ。」

 俺は過去に自分がした契約を悔いる。契約自体ではなく、その対象に対してだった。それへの愛情が一切なくなった俺は、体を喪失したことに理不尽さを感じる。それらに思い入れなどなければ今までの契約だってもっと有意義に使えたはずだ。俺が今回失ったものだって、取り返せたはずだった。またもや違う角度で悲痛が訪れる。

「契約は成立した。また呼んでくれたまえ。」

 悪魔は憎しみの表情を浮かべる俺には目もくれず、その場から消え去り、俺を部屋に戻した。

 むかっ腹を抑えられず、癖で酒の瓶を手に取ってみるが、それも怒りの着火剤でしかないことに気づく。

「ちっ。味もしないんじゃ、憂さ晴らしにもならん。何かを味わうことができないというのはこんなにも厄介なことなのか。」

 俺は舌打ちをし、瓶を投げ捨てて呟く。当然、今までそれを望んでいた自分にも腹が立つ。ましてや、死んでもいいゴミどものために。俺は人としての倫理観が圧倒的に欠落し、もはや人と接すればいつ犯罪に手を染めてもおかしくない状態だった。だが、先程までの恐怖に比べれば断然マシどころか、これが良いとすら思っているのは怖い話だ。

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