第4話 愚の骨頂
目覚めると二日酔いがひどかった。それのおかげで起きた直後はそれに思考が偏ってくれた。ソファまで身を運び、水を用意してそこに座る。そしてそれを飲みながら不甲斐なく今後について少し考える。こんな状態になってまで現実というのはそこにあり、少し置いといて。とはならぬのだ。
「姉ちゃんに思い出してもらう術はあるのだろうか。いやもう、いっそのこと俺の記憶も消してしまうか。」
変な笑いが立ち込めてくる。それが良い案だとも思ってしまった。自分のせいでこんなひどい目にあっている。そのことからも目を背けたかった。親友を殺し、姉に嫌われた人生を謳歌できる気はしない。
「どうせもう失うもんなんてないだろ。儀式による対価に姉ちゃんが選ばれることを除いて、それから記憶を消せばいい。」
俺の事を忘れたとしても姉は姉だ。何よりも大切で、愛しているというのは変わらない事実だった。例え、俺が居なくとも幸せに歩んでいけるのならその選択も悪くない。最も姉に忘れられた俺の苦しみは何よりも変えがたいモノではあるが。
「不釣り合いな交渉?上等じゃねえか。どうぞ俺から全てを奪ってくれよ。」
今度こそ俺の体が損なわれてもいい。そんなの最初から望んですらいただろう。俺はもう一度儀式を取り行うことを決めた。幸い、機材は安価に済むし、経典の写し書きだって持っている。少しのスペースがあればできるのだ。俺は乱れた思考を落ち着かせ、次の決行日を考えながら、気分の悪さが落ち着くのを待った。
儀式に取り掛かったのは4日目の晩だった。機材を取り入れるのにはそう時間がかからなかったが、家のリビングを儀式の間に改造するのに手間取った。思ったよりもスペースが足りず、何度も家具を動かしてはその領域を広めていった。
試行錯誤した末、実家の地下にあったような儀式の間が完成した。俺はまた蠟燭に火を灯し、詠唱によって悪魔を呼び出した。
「おお。随分と久しぶりじゃないか。今度は何用だ?」
判別できぬ声でそう問いかけられる。これも聞き慣れたと言ったところか。
「契約を頼む。その前に聞きたいことがある。俺の姉の事だ。姉、ノースの行った契約の詳細を教えてくれ。」
そう悪魔に質問する。俺は姉の失ったものが記憶だけなのかということを確認しておきたかった。
「わからん。我はそれに関与してないからな。我々は幾つも個体を持ち合わせていて、契約者も別々だ。」
と悪魔に突っぱねられた。それでは困るのだ。
「姉は声を得る代わりに記憶を失ったらしいんだ。だが、不可解なことに俺の映っていた写真の俺だけが消えた。俺自身の存在ではなく。これはどういう事なのだ。」
何かわかるのではないかとその時の異常現象について説明した。すると悪魔は納得したようで
「そういうことなら説明ができる。我々の契約による記憶の消去とは生ぬるいものではない。思い出すことは天地がひっくり返ってもありえない。その者の記憶に干渉しようとする痕跡は消し去られる。契約の対象がお前自身ではないため、お前の身は何ともないが、お前が一緒に居ればそいつは狂い、頭が爆発でもするんじゃないか。」
と告げた。記憶の消去は間違いなさそうだったが、最後の話は例えかどうか判断がつかない。冗談で言ったのだろうか。
「それと、なぜ契約によって発生するものに傾向が無いんだ?俺は身の回りの物を失ったのに、姉ちゃんは自分の物を失った。この違いはなんだ?」
もう一つの重要なことを投げかけ、悪魔に聞く。これに関しても悪魔は答えた。
「傾向はあるさ。声に深い魅力を感じていたのなら、それに相応しい対価が支払われるだけのこと。お前が今まで運がよかったんだ。」
それを運がいいとは言わない。俺は自分に滅びが来るのならいくらだってそれを望んだ。その対価があれらなら、俺は世界一不運な男だ。だが、悪魔の話を聞いて安心した節もあった。今まで、俺自身から差し引かれることが無かったため、もしかしたら俺に選定が行われないと思っていたが、これで安心して身を捧げられるのだ。
「そうか。分かった。今回の契約は二つだ。一つは姉が今後契約による対価を失わなくなること。もう一つは姉との記憶を…」
俺は決めていた二つを提示し、契約を取り付けようとしたが思いとどまってしまった。今までの姉との思い出が鮮明に駆け巡り、それを失うことがどういう事か、もう一度考えた。そして俺がこの苦しみに耐え切れず姉の記憶を消すなんて都合が良すぎる。人の命を弄んだ俺はもっともっと苦しむべきなんだ。そう思った。
「どうした。二つ目はなんだ。」
悪魔が急かすように囁く。俺はその場で整理し、答えを出した。
「もう一つは俺の姉、ノースに俺が支援できる関係を構成してくれ。もちろん、姉が発狂しない程度の。」
俺はせめてもの罪滅ぼしに姉が歌手としてやっていくという夢を見て、兄弟でなくとも何かしらの援助がしたいと考えた。契約によってできた軋轢は日常的な干渉では難しく、やはり契約を通すしかなかった。
「了承した。だが、一つ目の契約の「保護」はお前との契約に尽きる。それでも良いな?では一つずつ選んで願え。」
悪魔はそう仕向けた。俺は姉が再び儀式に手を出すことは無いと踏んだので、首を縦に振り、祈りを始めた。俺はまず、姉に儀式の対価が及ばぬ様に心の底から願った。さっきあんなに質問したはずが、この時、前にこれを実行することを考えていた時の悪い予感が頭から抜けていた。杭が俺の全身を貫き、改変された真実が頭に浮かび上がる。俺はその代償を知り、のたうち回り、悶絶した。
「こんなの不正だろ。ふざけんな!これじゃ契約の意味なんて微塵もないじゃないか。」
契約によって奪われたもの。それは姉の「命」だった。正確には姉の心が圧殺され、自殺を仕向けた。安全に置きたくて願ったのに、その代償が俺ではなく、またもや姉だった。契約自体は成功したようで、姉の死体から金輪際、契約によって何かが差し引かれることは無くなった。
「姉の心が奪われたか。まあ今回も安く済んだか?して、二つ目の願いは成立しなくなったため破棄だな。」
この悪魔には人間の価値観は理解できないらしい。どこをどう見ても大失敗で、もう元には戻せないというのに。俺は血管が切れそうなほどの怒りをぶつけるべく、目の前の靄に殴りかかった。しかし、暖簾に腕押しで拳は空を切るだけだった。
「我々は一種の概念だ。肉体的に干渉することはお前にはできない。そして契約は公正になされた。呪うのなら天秤に掛けた自分自身にするのだな。」
悪魔は怒る様子もなく、けらけらと笑っているようだった。またしても、俺が殺した。なぜ。
「なぜ、俺自身が代償にならないんだ。」
納得できるわけがない。今回こそはと思っていたのに。
「お前自身が代償となることを望んでいるからではないのか。そう望めばそれはお前の希望に近しいものだ。」
そう悪魔に返され、痛い所を突かれた。それは正しい意見で、俺の自分に対する過小評価がそのまま結果に繋がっていた。今までだってそれで説明がつく。本当に失う価値などなかったから失わなかった。そのことにようやく気づかされる。
「俺は。俺は。くそ。なあ、もし失うものなんてない人間が居たとして、そんな人間が契約したらどうなるんだ。」
俺はこの期に及んで、まだ自分にはもう失うものなんてないという思考が芽生えた。本当に救えない屑だというのは自分でも理解していた。それでも口にすればなんとおこがましいことか。
「そんな人間はおらんだろう。心ありきの人間。と我々の間では通っている。それが本当なら、我々との契約をしている時点で意思もあるし、失うものもあるではないか。」
悪魔は人間というものの本懐を見抜いているような発言で返した。奇妙なことにその言葉は突き刺さるどころか、なぜか安心を呼んだ。まだ俺は滅びの一途を辿ることができるという事実に胸の高鳴りさえ覚えたのだ。俺はきっとおかしくなり始めた。もう全てがどうでも良くなった。
「はっはっは。それは素晴らしい。今後とも良き契約をしよう。」
俺は目をランランと輝かせ、儀式から去った。
儀式から離れた俺はさっきの狂気は嘘のように引き、冷静さを取り戻していた。
「さっきの狂言はなんだ。俺はどうしたというんだ。」
まるで誰かにしゃべらされていたかのような気分だった。胸の高鳴りは息をひそめていたが、今はいつも通りと言っても遜色がなかった。それ故、姉の不当な死の現実が押し寄せ、またも悶絶を食らう。床でゆらゆらと燃える小さな炎で自分の手を炙る。
「ああああ。苦しい!」
痛みと絶望の絶叫が部屋に響く。この火傷など生温い。俺の心はそんな痛みではかき消せない程に引き裂かれていた。幾度となく頭や体を家具や壁にぶつけて自傷行為を繰り返す。そんなことをしても落ち着くことは出来ず、次から次へと湧いてくる自己嫌悪と生きる虚しさに心を握りつぶされそうになる。こんなに苦しいのに死なず、生きている。やがてそれらが無意味だと知り、抗う力が抜け落ち、泣きながらその場へ崩れた。
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