第3話 いたずら

 姉に声以外の障害は見当たらなかった。一年前と変わらぬ姿で、普段通りに振る舞って見えた。彼女も生き返ったことを信じがたいと感じていたようだが、日に日にその事実を受けとめ、普通に過ごせるようにもなっていた。デントの家に共にもう一度赴き、花も添えた。警察はまるで機能しておらず、デントの変死でさえも世に流れることはなかった。

 その後、数週間が何事もなく流れたように見えた。俺の人生は華やかになり、文句はなかった。姉が居て笑ってくれる。それだけで幸福だった。俺たちの両親はとっくの昔にこの世を去り、それからというものは姉が母の様に世話をしてくれていた。生計が落ち着くまで俺のために仕事を掛け持ちし、生活を支えてもくれた。俺が働けるようになってからはお互いに自立できたが、それでも一緒に暮らしてきた。そうやって過ごす日々が俺にとっての幸福で、生きがいになったのだ。他に幸せはきっといくらでもあった。でも姉を失った悲しみが俺をどうにかしてしまったんだろう。

 しかし最近は、姉に悲嘆の跡が見えるようになってしまった。声を奪われた彼女はやはり耐え難いようで、声も出せずに泣いていた。俺の前では気丈に振る舞うが、目が泣いた後で充血しているのを何度も見た。筆談を何度もしたが、そのことに触れようとすると心配しないで。と言葉を濁すように一蹴するだけだった。そんな姉の姿を見ていられなくて、こっちまで耐え難い感情に襲われるようにもなった。大事なのはわかるが、姉の声への執着は異常とまで表現でき、どこか変だった。

「畜生。俺のせいで。なんで一番大切なものを奪っていくんだよ。」

 悪魔契約。そのことはずっと頭の片隅にあった。けれども、彼女の回復を二度とお願いできないという現実が立ちふさがる。耐え難い生き地獄を歩き続ける姉を、何とか救えないかと考えたが、良い案はそうそう出てこない。楽器を握らせてもみたが、逆効果だった。昔姉が弾いていたギターを引っ張り出して弾いてもらおうとしたが、楽器を握ると拒否反応を起こし、直ぐに手のひらから落ちて彼女の苦悩を刺激してしまう。姉はものに当たったり、暴力的な言動が現れたりすることはなかったものの、その表情やしぐさからは絶望の色がくっきりと映し出されていた。契約による回復が見込めないなら、俺自身が何とかするしかなかった。しかし、俺にそんな力はなく、どんどん姉を追い詰めていき、自らで首を絞めているような苦すぎる気分に晒されるだけだった。彼女の蘇生を絶対的に必要だと感じていたのに、今はそれすら後悔し始めている。生きる力を奪われた人間に明るく生きていけと言うのは無理な話だ。

「姉ちゃん。ごめん。苦しくて仕方ないよな。」

 俺は事あるごとに跪いて泣いて、謝るのが癖になってしまった。その度に姉は

(リーザフは悪くないんだよ。辛い所ばかり見せてごめんね。)

 と俺のせいにすることは一切なく、強がって見せた。いっそのこと俺を殺してくれ。そうまで思った。俺がどんなに謝っても、彼女がどんなに大丈夫だと言っても、空いた傷口は決して塞がることなく、彼女を地獄へと向かわせていくのだ。生きたくない命。今の姉はそうなのではないか。俺が居るから死ねずにいるのではないのか。蘇生しておいて彼女の死を願うなんて馬鹿げている。俺が他に幸福を与えなければいけないんだ。

 俺の日々は姉に希望を与えることに心血を注いだ。音楽から目を逸らせ、他の文学や、分野に目を向けるように促した。それでも興味を示さず、他にその穴を埋めるものは見当たらず、その欲が彼女を強く惹いて意味をなさなかった。彼女も考えないように尽力している節はあったが、日常の節々で思い出してしまい、回復の兆しは見えない。

 俺はついにその想像を遥かに超える執着に万策が尽きてしまった。それが姉にとっての核となるものだと知っていたが、それを変えるのは不可能だと気づかされる。思い悩み続けた結果、キッチンで色々と考えていた俺は良からぬ発想が頭に浮かんだ。

「そうか、その手があった。」

 良い案ではない。それは百も承知だ。だが、彼女の希望となるのなら手段など厭わない。それは彼女自身に悪魔契約を実行させるということだった。俺の「姉を回復させる願い」はもう叶わないが、彼女の願いとなれば話は別だ。そして、今までの傾向から察するに代償は彼女自身ではなく、彼女が大切に思う何かだ。それが俺ならば、俺から何かが差し引かれるだろう。上等だ。やってやる。俺は早速姉の元に向かい、今考えたことを打ち明けた。

「姉ちゃん。辛くて仕方ないんだろ?もう、手段なんか選んでる暇はない。例の悪魔契約をお勧めしたいんだ。愚かなことだと解ってる。でも明るく生きて欲しいんだ。」

 深々と頭を下げ、お願いする。今度こそ、俺が何かを捧げる番だ。姉のためなら死んだっていいんだ。

(わかった。そこまで言うならするよ。これ以上傷つくのも嫌だもん。)

 と姉も俺の熱意を受け止め了承の念を筆談で伝えてくれた。その目に輝きのようなものは無かったが、一種の冷静さの様なものは伺えた。俺は儀式に必要な準備を教えた。きっと最初はあの契約文を読まされると踏み、契約内容や代償については省いた。後は声を出して詠唱しなければいけないかという問題だけだ。

 二人で儀式の間に赴き、姉を部屋の中央に移動させ、蝋燭をつけ、詠唱文を黙読させる。すると成功したようで、俺が闇に包まれることは無かったが目の前の姉を含む情景が不鮮明になった。姉の姿は辛うじて見えたが、目に光はなく、傀儡の様に棒立ちで上を向いていた。俺が契約をしている時もこんな感じなのだろうか。

 しばらくその情景を見続けていると視界が晴れ、姉が帰って来た。恐らく成功したのだろう。依然と同じ姿で損傷もない。そして俺も何ともなかった。どこかの機能を失った様子もなく、ぴんぴんしていた。姉は儀式を終え、振り返って俺に気づくと、後ろへ下がって言った。

「あなた誰よ。」

 明らかにこちらを警戒しており、強盗を目の前にしたような恐怖が見えた。待ち望んだ姉の声が聞けたが、第一声がそれだった。

「何言ってるんだよ。俺だよ、弟のリーザフ。もしかして…」

 そう。姉が儀式の代償として失ったのは俺との記憶だった。俺の身から何かを奪うのではなく、またしても天命は最も意地汚い方向から幸福を掠め取っていた。なぜ、代償に俺が選ばれないんだよ。

「知らない。私に弟なんて居ないわ。警察を呼ぶわよ。」

 そこにいつもの優しい姉は居なかった。こちらを敵としか認識しておらず、聞く耳を持たなかった。

「本当なんだ。少し待っててくれ。敵意はない。昔の写真を持ってくるから。」

 俺も後ろに下げり、怖がらせないように努める。真剣にそう言ったものの、姉には伝わらず、鼬ごっこが始まってしまった。

「訳の分からない逃げる口実なんていい。分かった。何もしないから出て行ってよ。」

 俺の言葉は支離滅裂に捉えられ、相手にもされず、更なる恐怖を与えてしまった。俺はそれでも食い下がって土下座をし、心の底からの言葉を履く。

「何度も言うが嘘じゃない。儀式をしたことは覚えてるはずだ。その代償で姉ちゃんは記憶を無くしたんだよ。」

 姉は少しハッとなり、納得した様子も見せてくれた。儀式の事は覚えているが、その代償を覚えていないことに感づいてくれたようだ。

「分かったわ。あなたの言う事は本当かもしれない。でもここで待つわ。それでいい?」

 敵意が無いとも伝わり、場の空気は多少和んだ。俺は頷き、走ってリビングに写真を探しに行く。引き出しを漁り、より最近の二人で取った写真を数枚選んで持ち出した。

 それらをもう一度儀式の間に持って行った。姉は直接受け取ろうとはせず、常に距離を取って欲しいと言われた。姉は俺が床に置いた写真を拾い上げ、数枚を捲っていったがどんどん俺に対する不信さが増していった。

「何よ。私しか映っていないじゃない。あなた、すごく怖いわ。」

 俺を狂人の様に扱い、姉は震え出した。恐怖で震える手から零れ、散らばって表になった写真を幾つか見たが、そこに俺の姿は無かった。さっきまでは確実に映っていたはずなのに。

「違う。映ってたんだよ。」

 俺は必死に弁明する。姉に弟が居たという現実に改変が行われたのなら、この俺も消滅しているはずだ。どうも姉の記憶だけが欠落しているはずなのに、これでは辻褄が合わず、不可解だった。俺もそのことに説明がつけられず、下手な弁明しか出てこない。

「もういい。出て行って。」

 姉は恐怖のあまり泣き出し、その場に崩れて言った。体は常に震え、ここに居る俺がまさしくそれを助長させていた。

「わかった。怖がらないで。もう出て行くよ。一つだけ言わせて。また姉ちゃんの歌が聞きたかっただけなんだ。」

 俺がこんな事を言っても怖がられるだけなのは分かっていたので、それだけ言うと踵を返し、リビングに戻り、俺の貯金と着替えが入ったスーツケースを急いで用意し、この家を飛び出した。

「なんで俺じゃないんだ。俺の時は俺の身の回りのものばかり亡くしたのに。俺の最悪の形で夢が実現する。」

 姉にとって俺が大切なら大切な程、儀式の代償は俺に向くはずだった。しかし、今回は姉に向かった。そして、全ての記憶ではなく、俺という存在の記憶だ。これも俺の事をどれだけ大切にしていたかとという証明にはなるが、俺の行った儀式の代償の傾向と合致しないではないか。そして俺にとっても姉に忘れられるというのは途轍もない打撃だった。なぜ俺が終わらず、苦しみ続ける結果になるのだ。まさにそれは悪魔のいたずらとしか言いようがなかった。

 唐突に追い出されることとなった俺は、デントの家を根城にすることに決めた。死ぬ前は俺の散々な様子に理解を示していてくれていたので、困ったらいつでも来い。と合鍵も渡してくれていたので、生活は出来そうだった。

 デントの家に着いた俺は力尽き、玄関で横になった。

「畜生。畜生。ふざけんな!」

 俺がデントを殺し、姉に絶望を与え、そして忘れさられた。全て俺が起因し、何をやっても上手くいかず、自暴自棄になってくる。煮えたぎるような怒りと体が砕け散りそうな深い絶望感に身をよじる。

「デント。姉ちゃん。どうして。」

 俺の我欲のために尊い人を失った挙句、幸福なんてどこにもなかった。姉が動いてくれた最初の数週間の仮初の希望に縋っていた自分が馬鹿らしくなる。俺は胸の痛みに耐え切れず、持ってきた酒を意識が遠くなるまで飲み、そのまま眠った。

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