紫陽花が枯れる前に

なしごれん

第1話

青春とは、強く優しく生きようとしてはじめて、そこに生じる自他の利害のどうしようもない矛盾に悩み、苦しむことである。


 突然だが、僕は2023年6月25日に自殺をしようと思う。



彼は、今日買ったばかりの大学ノートの左端に、青いボールペンでそう書いた。



なぜ青いボールペンなのかと言うと、彼が普段使っている零点五ミリの黒色は、先週にはもうインクが途切れ途切れで、いつか買おうと持っていた矢先に、彼は今日寄った雑貨屋でインクを買い忘れたのであった。


大学ノートの端に書いた文字を何度も読み返し、次に出てくる言葉を探した彼は、そこでペンを置いた。


さて、これからどうしよう。


彼は机の上に頬杖を突き、ノートの隣に置かれた一冊の本をぼんやりと眺めた。




彼が原口統三の『二十歳のエチュード』を読み切ったのは今朝で、彼は眠りもせずにそのまま雑貨屋と本屋に向かったため、家に着いた午後三時には憔悴しきっていて、誰もいないリビングに倒れるようにして八時間ほど眠った後なのである。


目覚めると、彼は空腹もそこそこに、買ってきた『ランボー全集』を開き、初めの二三ページを読んでふと決意したのである。


僕も統三のように死んでやる。


それはいかにも突発的で、十九の人間誰しもが通る、生きるための峠。思念の道中。浅はかな表明であったが、彼はこの『二十歳のエチュード』を読んで、どうしても自分と言う存在を他者に認めて欲しかったのである。




彼の家庭は至って普通である。バツイチ子持ちの父と、子を産まずに別れた母。それに三つ上の兄と生後六か月になる猫が家にはいた。東京のオフィススタッフとして働く母は活発で、五十代とは思えないその溌溂とした能率は、週五日の朝早くから夜遅くまで続けられる。来月で七十二を迎える父親は、長年勤めた証券会社を定年し、今は週に三日ほど女子校の警備員をしている。

三つ上の兄は三月に音楽大学を卒業し、春から駅前のレコードショップの店員として働いている。




 六月三日。いつものように昼の一時に目覚めた彼は、特にすることもないので自室の椅子に座りパソコンを開くと、取り留めもなく文字をうった。


彼は流浪の民だった。いや、それは彼自身が称しているものであり、衣服や生活は全て親に頼っている。つまりあぶれ者なのだ。


彼は三月に通信制高校を卒業した。二年の途中から学校に行かなくなり、一年間休学したのちに入ったのが通信課程だった。だから彼の年齢は十九の、今年成人を迎える処なのである。



彼は三年前に普通科高校を辞めた。それは一月の下旬のことで、彼はそれを、昨日のことのように覚えている。



高校時代、彼は友人に恵まれていた。それは義務教育という、偶然に近しいほどの郷里の同胞と接するよりも、幾分か能動的で、大人の社交辞令に似た何かを感じずにはいられなかったものだが、とにかく彼は新天地で三四人ほどの友人を作り、青春と呼ばれる毎日を送っていたのである。


彼の三四人の友人のうち、ひとりはバスケットボール部、もうひとりは水泳部、文芸部、卓球部と言った具合で、彼はどこの部にも属していなかった。



卓球部に属していた友人をAとしよう。Aは刈り上げた頭髪を優しく撫でる癖があって、眼鏡をしてるからだろうか、幾分か鋭い眼光がギラリと光っているかと思うと、予想だにしない温和な笑みを浮かべることがあって、彼は春の、まだクラスに色のない頃から、Aのその一種魅力的な情緒に興味を抱いていたのである。



Aは見た目よりも大人しい性格だった。授業中も極力発言はせず、一心にノートに文字を書いているだけであった。ただ彼の恰幅は、同い年のそれと比べると、多少なりとも肉厚で、運動神経に至ってはクラスでも五本の指には入るほどだった。



それに加え、Aは勉強がよくできた。入学初日に行われる学年模試で、彼は英語と数学で一位を取った。特進クラスなのだから、当然だと思われるかもしれないが、当時の彼のクラスは、類を見ないほどの惨憺たる結果を残していったため、Aの優良な結果は、逆にクラスでは目立っていた。


彼はその模試で22位だった。



夏休み前、あるホームルームの時間に、担任は彼らに、オープンスクールに行くようにと勧めた。


彼らにも、それぞれ夢は持っていたものの、やはり特進という名目上(彼の高校は偏差値四十五の、自称進学校であった)難関大学を目指さなければならないため、各々が今の位置よりも二十ほど偏差値の高い大学名を記入し、休み期間中にそこへ訪れなければならなかった。


彼は当時、上智大学の史学科を目指していた。それは彼の成績からすると、あまりにも無謀で、他人から止められても致し方がないほどの高の括りようであったが、当時の彼はどうしようもないほど向上意識があって、偏差値二三十の差など、どうってことないのだと前向きな姿勢を貫いていたのであった。


その時、彼はAの希望する大学がどこなのかと気になった。彼は授業が終わると、必ずと言っていいほど教室に残って勉強をする癖があって、一方Aは放課後も土日も部活動があり、この短期間でも差は縮まってきているのだからと、彼はAの希望が上智よりも高くないことを願っていたのである。



「志望校どこにするん?」


彼がAの席に近づきそう聞くと


「うん。やっぱりMARCHは固いかな。この辺の大学で言うと、横国とYCUもいいかもね」



と言い、第一希望の欄には法政大学と書いたのだと、いつもの柔らかな笑顔で答えていた。




十二月ごろ、Aは学校を休むようになった。持病が悪化したのだろうかと心配したが、それは定期的で、三限や五限からやってくる場合もあったから、彼は授業中、Aのいない前から二列目の空席をぼんやりと眺めていた。




それは年が明けた一月の、冬空に厚い雲がかかった午後のことであった。


七限目の授業が終わり、帰りの準備をしている時のことで、いつものように教卓横のドアから担任が入ってきた。

その時、彼は何か不穏な雰囲気を察し、友人との会話を辞め席に着くと、妙に突飛な心持で、担任が言葉を発するのを待った。

数学を受け持っていた男の担任は三十代半ばで、その白い肌がより目立つ、血の気の失った顔を強張らせて、


「A君が亡くなりました」

と弱々しく言ったのである。



死因について、担任は曖昧な供述をした。

「近頃、幻覚が見えると言い出した」



次の日から、彼はたびたび学校を休むようになった。出席したものはというと、Aの通夜のみであり、彼は不自然に白くなった死化粧を、いつまでも眺めていた。



ちょうどその頃、彼は体調を崩していた。当時の日程はというと、英検に校内模試、通常のテストなど、多感な時期でもあったから、彼は寝る間も惜しんで勉強していたこともあり、薄弱して疲弊しきっていた。その身体に追い討ちをかけるようにして、一月の大寒波が、駅のホームに立つ彼の首筋に流れたのである。




週明けの二月三日。彼は五限目の授業に出るべく、一時過ぎに教室へと入った。

それはちょうど昼食の時間だったから、クラスではそれぞれの派閥に分かれ、机を隣り合わせるようにして、皆が談笑し合っていた。

彼はいつものように友人たちに「よう」と言って、自分の席に座ると、何気なく教室全体を見渡した。



至って普通の教室なのである。男女が二列別れるようにして配置された座席に、それぞれの声が響いていた。ある者はアニメの主題歌を大音量で流し、またある者は、流行りのドラマに出演した若手俳優について熱く語っていた。



彼は徐に斜め前の、以前Aの席だった空席を眺めた。


窓からの陽光が、じっと机を照らしていた。整理されたAの席は、温もりがまだ残っているような、けれどその席だけクラスから排除され、喧噪や実体がまるで感じられない、異質なもののようにも感じられた。



彼は咄嗟に、向かいに座っていた友人に

「今日、なにかおかしくないか?」

と尋ねた。



友人は怪訝な顔をして

「そう?特になにもなかったけど」

といつもの爽々とした口調で語り、隣の友人とサッカーについて話し始めていた。



その時、彼の内部から突如くろい液体が湧き起った。

沸々と込み上げてきたそれは、彼の身体にまとわりつき、やがて教室の隅々にまで流れ込み、彼や他の生徒を覆った。


くろが教室を包んだ。


次第に視界が狭められ、彼は斜め前の、ひっそりと佇むAの空席が、隔離されたように綺麗なまま、徐々に薄くなって消えていく様を、ひたすらに眺めていた。



如月の冷風が窓から流れ、彼はその冷たさで幻影から目を覚ましたが、心の奥底は冷えたままだった。彼はそのとき学校が、教室が、自分の席が、堪らなく恐ろしく、静謐なものに感じられたのであった。



彼は高校に入学してから、ある種矜持に似たようなものを持っていて、どこか自分が他人よりも優れていると、不確かながらも感じていた部分があった。それは彼の学力や、少々外交的な性格に通ずるものではなく、ただ漠然と、彼は自分が世間の範疇に収まる器の人間ではないと自負していた。けれどその日から、昂然としていた彼の自信は、抗うことのできない死への恐怖へと、一直線に注がれていったのである。



人間はあっけないものだ。ガラス瓶のように、割れればただのゴミと化してしまうのだから。



僕は自由でありたい。やはり生きるということは、それ自体何か縛られているようなもので、刻々と変化し続ける時分の興隆に、その都度順応していかなければならないのだ。


けれど縛られると言うことは、言葉を換えれば制限しているということで、これに関していえば僕は何も間違ってはいないことだと思うのだけれど、時としてその制限は、存在そのものの障壁に、類を見せぬほどの不善を与えているのではないだろうか?

ましてや思春期というある一定の成長期においては。



彼はそうノートに記すと、再び目を瞑った。


自殺の方法は明日にでも考えればいいだろう。



その時彼の脳内に、穏和な笑みを浮かべたAの顔が大きく映っていた。


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紫陽花が枯れる前に なしごれん @Nashigoren66

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