天井桟敷の僕①

 今朝はめずらしく、目覚まし時計に叩き起こされる前にすんなり目を覚ました。しかもアラームの設定より一時間も早くに。

 五時過ぎの薄暗い部屋の中はザアザアと、混じりっけない雨の音で天井までなみなみ満たされてる。もう一度目を閉じてみてもちっとも眠気は湧いてこなかった。

 

 僕はすっくと立ち上がる。ここでなんの脈絡もなく逆立ちしてみたって(それがもし、みっともなく頭をしたたか打ちつけるのみに終わったとしても)観客の心を揺さぶる印象的なシーンになりそうだなと、僕はイッパシの銀幕スタアを気取って窓際にたたずんだ。

 空いっぱいに垂れ込めるにび色の雲は見るからに陰気くさくって、そこからはひっきりなしに雨粒が降り注いでいる。まるで僕の門出を祝福するみたいに。

 

 僕は雨の日が好きだ。べつにアマノジャクを気取ってるつもりはなくて、雨降りには見渡すかぎり、どこもかしこも一緒くたになってくすんでしまうから。

 それはたとえば僕と、ファッション雑誌の表紙を飾るあの見目麗しい有名人との境界線だったり、バスケ部の期待の新星こと堀くんとの境界線だったり、僕と『レネ』や、僕と櫻井先輩との境界線だってみるみるうちに曖昧あいまいにしてみせるから、そのときだけ、僕はやっとこの世界の一員になれた気がしてホッと胸をなで下ろす。

 日々の暮らしぶりといったらおおむねそんな具合で、お世辞にも健全とは言いがたい。

 

 だけど。

 

 穴のあくほど読み返した机の上の台本を手に取る。表紙をめくる、次のページ。『ジャン』の隣、『レネ』の役名の下に記された『佐伯胤左』の名前はゆうべ、僕が自分で書き加えたもの。二度三度と擦ってみても剥がれ落ちることのない。それは、夢じゃなかった。

 部屋の片隅に立てかけられた姿見を覗き込んでみたら、普段より二割り増しで立派な僕がいる。ロバート・デ・ニーロとまではゆかずとも次の舞台、これなら及第点くらいはもらえないかな。どうだろう。いえいえ、高を括ってるだなんて滅相もない。一世一代の晴れ舞台、ひと花咲かせてみせましょう。


 落書きされた自販機も、やたら青信号の短い交差点も、ぬれたマンホールに足を取られそうになっても、今日はありとあらゆるモノゴトが、なんの変哲もない僕の日常を見違えるくらいドラマチックに演出してくれてる。なにかがそう、動きだそうとしている。

 現にいつもの雨降りならバスの車内はすし詰めのはずなのに、奥めのひとりがけ席に難なく座ることができた。これはタダゴトじゃない。


「乗りまーす」


 僕がひと息つくのとほぼ同時にふたつの扉も閉め切られ、さあこれから発車しようかというそのとき、降りしきる雨をものともせずその女の子の声は響き渡った。窓の外には歌いださんばかりの真っ黄色のレインコートを、頭からすっぽり被った人影が。大きく手を振りながら懸命にこのバスへ追いつこうとしていた。


 ふたたび開かれた車体中央の乗車口へ飛び乗ったその人物は、オレンジ色の手すりにしばらくもたれかかり、車中の注目をひとり占めにしたままバスの進行方向へ向き直った。そして、「ありがとうございました」肩で息をしながらひと際大きな感謝を告げて、ペコリとお辞儀をした。

 上半身を倒した拍子にレインコートの裾がずり上がり、ふくらはぎからひざ裏にかけて露わになった彼女の白い肌に、僕の目はくぎづけになる。つまり不可抗力というヤツだ。

 

 次に姿勢を正した彼女はクルリ体を反転させ、カーテンコールさながら、今度はこっちに向かって重ねてお辞儀をしてみせた。あっけに取られる客席からは拍手のひとつも起こらない。僕は急に胸が苦しくなる。それに引き換え彼女ときたらまるで意に介さない、あたかも抜群の手応えを得たかのごとくコウベを垂れる。なおも垂れる。もう深々と垂れる。

 ようやく引き上げた頭からおもむろにフードを取り払うと、そこに現れたのは彼女の身にまとったレインコートにも引けを取らない、目の覚めるようなブロンドヘアだった。


 うなじの左右から差し入れたその手を大胆に後方へ投げ出すと、まばゆい髪はわずかに宙をたゆたい、はらはらと肩口に落ちた。そうして上気した顔に浮かんだ、汗とも雨ともつかないシズクを手の甲で拭い去ったら、彼女はひと仕事終えたあとの会心の笑みを浮かべた。

 なんだかシャンプーのCMでも眺めてる気分。足元のローファーと、その顔つきを見るに、たぶん歳はそう変わらない。なのに自信に満ちあふれたその立ち居振る舞いは、僕なんかとは天と地ほども差がある。

 

 僕はきっと、羨望にも似たまなざしで彼女を見つめていたんだ。それがいけなかった。熱視線に気づいた彼女は突如としてこちらへ迫りくる。


 ずん。


 ずん。


 二重マブタの強力な視線に返り討ちに遭って、僕は目を逸らすことさえままならない。ああ。ああ。「なに見てんだよ。キメェんだけど」もはや罵倒される未来しか見えない。

 ところが彼女は思いも寄らぬことを口走った。


「あれ。佐伯くん」


 サエキクン? それはよく見知った人間の名前のようにも思えるし、ありふれただれかの名前のようにも思える。僕はひとまず、くだんの人物を探して隣を見やる。


「あだ」


 当然、そこにはだれもいない。激しめに頭をぶつけた窓しかない。


「痛そ。大丈夫?」


「大丈夫です。はい。もう、全然」


「あ。でもちょっと赤くなってる」


 目と鼻の先に彼女の顔が。が。指先が僕のおでこに触れる。そのしぐさがやけに蠱惑こわく的で、そして雨のにおいを上書きして甘ったるい香りが鼻先をかすめる。アオハル到来! アオハル到来!

 ツヤっぽいピンク色したくちびるから、僕は目が離せなくなる。煩悩退散! 煩悩退散!

 うしろに飛びのいた拍子に、今度は後頭部を強打した。


「ゴメン、ゴメン。そんな驚くと思わなくて」


「いや。あの。ほんと、大丈夫なんで。全然、気にしないでください」


「メガネ」


「え」


 いつの間にかメガネのレンズには水滴が飛び散っている。


「たぶんアタシの体に付いたのが飛んだよね」


「大丈夫です。拭けばいいだけなんで」


 よく見ると、彼女の身につけたレインコートは多分に水を滴らせていて、点々と足もとに水たまりを形成していた。彼女自身、まわりの目なんて露ほども気にはしていないようだったけれど、この状況、僕にとってもあまり体裁がよろしくないのでは。ううん。


「あの」


「ん」


「これ。よかったら使ってください」


 僕はひざの上に載っけていたリュックからフェイスタオルを取り出して、彼女に差し出した。


「え。いいの?」


「はい」


「ほんとに」


「はい」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 彼女は軽く顔を拭いてから、その太陽みたいにまぶしい髪に僕のタオルを押し当てて、ていねいに水気を取り除く。そのしぐさは、とんでもなく、色――心頭滅却!


「ありがと」


「あ。あと、その。体」


「体? おお。むっちゃ床に垂れてる。全然気づかなかった。え。でもいいの? 汚れちゃうかも」


「いいです。いいです。洗えばいいだけなんで」


「いや。それはまあ、そうかもだけど。ふふ。なら遠慮なく」


 その体からひと通り水滴が消え去ると、いくぶんまわりの目もやわらかくなったようす。これで一安心、とはならなかった。


「甘えついでに一個、お願いしてもいい?」


 彼女は僕にタオルを手渡してきて、たぶんカバンのせいで膨らんだ真っ黄色の背中をこっちに向ける。


「念のため、うしろも拭いてくれないかな」


 な。なんだって。この僕が、あなたの背中を。そ、そんなのって。


 見ず知らずの乙女の体に触れるなんて(もちろん正確には、制服越しの、カバン越しの、レインコート越しの、さらに手にしたタオル越しではある)、こんなのビーチで背中にサンオイルor日焼け止めを塗りたくるよな、嬉し恥ずかし、胸キュンイベント開幕じゃん。どうすべきか。僕はどうすべきか。やばい、手の震えが止まらない。手汗も出る。いっぱい出る。


 いいや、ここまで包み隠さず好意を寄せてくれてる女性に恥を掻かせるなんて、大の男のするこっちゃない。でも。もう少しこう、お互い段階を踏んで、じょじょに距離を縮めてゆければなお、理想的ではある。

 そもそも見ず知らずの相手に背中を預けるなんて彼女、不用心すぎやしないか。仮に僕がふてぇ野郎なら、どんな仕打ちが待ち構えてるのか知れたもんじゃない。それとも彼女の中ではこの程度、日常茶飯事なんだろうか。だれ彼なしに体をさらすなんて、僕は、僕は――。


「おーい。どうかした?」


「あ。いや」


「お願いできますか」


「謹んでお受けします」


「あはは。なにそれ」


 よかった。とりあえず僕のヨコシマな妄想群は、彼女には悟られなかったみたい。親指と人差し指にタオルを挟んで、できるかぎり、やんわりと、僕は薄目を開けてその魅惑のアウトラインをなぞる。なぞる。


「ねえ、佐伯くん」


「はひ」


 思わず声が上ずる。


「ほんとに拭いてくれてる?」


「え」


「いや。なんか全然感触ないから」


「問題ないです。ちゃんと拭けてます」


 なぞる。なぞり続ける。そう。ここ。とくにおしりの辺りは慎重に処理しなければならない。彼女の許しを得てはいるものの、卑怯者のヘンタイとして後世に名を残す可能性だっていまだ拭い切れないのだ。僕はまだ、まっとうな人間でありたい。

 それはもう永遠とも思えるくらい、長い、長い、時間だった。


「お、終わりました」


「ありがと。って大丈夫? なんか息上がってるけど」


「あ。はい。ちょっと、息を止めていたので」


「そうなの?」


「べつにあの、変な、意味じゃないですから」


「メガネ」


「え」


「は拭かないの?」


「あ。そうですね」


 すっかり忘れていた。僕は慌ててタオルをリュックに押し込んで、代わりに専用のクロスを取り出したらメガネをはずす。そうしてレンズに残った水滴と曇りをみんな取り除いてゆく。

 すると間もなく、なぜだろう。ものすごく、こっちを見られてる気がする。


「うーん。ううーん」


 しかも心なしうなり声まで聞こえてくる。


「佐伯くんはさ、メガネして舞台に立つ予定?」


 舞台に立つ? どうしてそれを。僕が『レネ』に決まったのはつい昨日のこと、まだ演劇部内でしか知られてないはず。

 なんとなく流れで背中に触れてしまったりしたけど、あれ。結局、彼女は一体何者なんだ。その口ぶりは人違いで僕に話しかけてるってわけでもなさそうだし、だけど。こんなあからさまにと言わんばかりの見た目をした知り合いなんて、まったく思い当たるフシがない。


「そうですね。その予定です」


「そっかあ」


「はずしたほうがいいですか」


「はずしても問題ない?」


「明かりがあればなんとか。ただほとんどなんにも見えないんで、板付きとかは厳しいかもです」


「コンタクトにしてみるとかは」


「コンタクト」


「うん。結構、快適だよ。アタシも最初は“目にモノを入れるぅ?”とか思ってたけど、慣れちゃえば全然平気だし、『ワンデー』ならお手入れもしなくていいしね。なんかコンタクトレンズの会社の回し者みたいだね。ふふ。まあ。アタシがコンタクトにしたのはべつに舞台のためってわけじゃないんだけど。あ。でも。この髪はね、ちゃんとした役作り」


 役作り。


「お兄様。私の身体、このまま朽ち果ててゆくのかしら」


 それは、『マリィ』のセリフ。


「どうかな、なかなか様になってない?」


 そこでようやく僕は彼女の正体に思い当たった。


「笹木先輩」

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