ジャンとレネ③

「舞台の上なら空も飛べる」


「え」


「四六時中、海の中を漂ってだっていられる。千年前、アメリカの大地に産み落とされた僕は流暢りゅうちょうに英語を操ってみせるし、この宇宙のどこか、百年かけて私は死ぬほどだれかと恋に落ちる。吸血鬼にだって人狼にだって、舞台に上がったら、なりたいものなんにだってなれるんだよ」


 櫻井先輩がそんなふうにいともたやすく言ってみせるから、僕はついついその話を鵜呑うのみにしてしまいそうになる。


「まあ、これは先輩からの受け売りなんだけど」


「それは、櫻井先輩の演技が上手だから」


「佐伯くんだって充分うまかったよ」


「野々ちゃんは、もっとうまかったです」


 まるで責任逃れみたいな言いぐさに、自分から口にしておいてうんざりする。


「うーん。たしかに票は割れてたし、そう思った人もいるだろうね」


「それなら」


「だからって佐伯くんがふさわしくない、とはならないよ」


 肩からかけていた、真っ白いその帆布のショルダーバッグに両手を突っ込んだ櫻井先輩は、なにやらゴソゴソと中身を漁りだした。

 そうしてそこから引っ張り出した両の手のひらの上には、向かって右に『いちごみるく』左に『パインアメ』。個包装されたアメ玉がひと粒ずつ載っかっていた。

 

「お好きなほうをどうぞ」


 これは、晴れ舞台にて散りゆく僕への手向けなのかもしれない。僕の長年の経験則によれば、女の子は意味もなく男子にお菓子をバラいたりなんてしない。そうでもなければ。

 

 もしかすると。あれ。

 

 僕のことを――なんて。


 一緒に舞台に立ちたいがため、櫻井先輩はあの手この手を駆使して僕をたぶらかそうとしていたり。そんなこと。いや、あるいは。

 もしも。そこまで言い寄られたら、女装して人前に立つのも、やぶさかではない。やぶさかではない。

 

 ところで伝え聞いた話によると、女性の差し出す選択肢には、こちらに有無を言わさぬ答えがとっくに決まっているとか、いないとか。ここでの決断がふたりの行く末を、まさに左右すると言っても過言じゃない。

 だけど『いちごみるく』と『パインアメ』はたしてどちらを選ぶのが正解なのか、僕には見当もつかない。そもそも正解ってなんだ。それはやっぱり、好きなもの?


 櫻井先輩の好物なんて聞いたことないし。


 名は体を表すというくらいだから、櫻井先輩は実はサクラの花が好きで、ピンクが好きで、ピンクといえば『いちごみるく』。いくらなんでもコジツケがすぎる。

 そこで僕はひらめいた。


 “だれにも言ってないけど、このイチョウ並木目当てにここへ入学したんだ”真偽はさておき、間違いなく彼女はそう語った。つまり櫻井先輩は少なからずイチョウが好き。イチョウは黄色。『パインアメ』も黄色。櫻井先輩は『パインアメ』も好き!

 そうと決まれば僕は迷わず手を伸ばした。ところで食指がピタリと止まる。


 櫻井先輩が『パインアメ』を好きなら、僕が選択すべきはむしろ『いちごみるく』のほうでは。


 まさか。今日の僕はなんて冴えてるんだろう。自分で自分を褒めてやりたい。女性の機微を見逃さずさりげない気づかいまで見せるなんて、これこそだろう。

 手首のスナップを右方向へ利かせて、心なし誇らしげに僕は『いちごみるく』を手にする。


「たとえば佐伯くんがイチゴが好きで、僕はパインのほうが好きだったとして、それできみは僕のこと間違ってるとは思わないでしょ。つまりまあ、そういうことなんだな。要は好みの問題」


 ああ。そう。うん。


「僕たちの舞台を見て面白いって思う人もいれば、全然つまんないよっていう人だっている。だってこの世の中に見た人全員を納得させる舞台なんて存在しないんだから。どっちが正しいとか正しくないとか、そんな単純には割り切れない。食べ物の好き嫌いとおんなじにね。とはいえ人前に作品として出す以上、なんらかの答えは示さなきゃならない。僕たちは最良の選択肢をつかみ取ろうとする。その上で今回は佐伯くんでいこうってなった。佐伯くんにやってもらおうと、そう決まりました。だからそれは自信を持っていいと思うよ」


 心づかいがつくづく身に染みて、僕はもはや針のムシロです。

 お前はいつもそう。丸出しの下心のせいで他人の親切を台無しにする。そんな卑劣漢とお付き合いしてくれる好事家こうずかが一体どこにいるっていうんだ。

 ――だれもお前を愛さない。


 僕はすぐにでも鏡を覗き込みたかった。だけどこんな場所でいきなり手鏡を取り出したりなんかしたら、まるで自分大好きみたいじゃないか。


「ありがとうございます」

 

 「これもみんな、先輩からの受け売りなんだけどね」そう言って櫻井先輩はカラカラと笑ってみせてから、「それに」とさらに付け加える。


「佐伯くんってたぶん、セリフ全部覚えてるよね。レネ以外のも」


「一応は」


「やっぱり。プロンプ早いから、そうなんじゃないかなって思ってたんだ。台本の端から端まで、セリフをみんな覚えるなんてなかなかできることじゃないよ。むしろそれだけ熱量を持ってる人にこそふさわしいんじゃないかな」


 櫻井先輩の顔に泥を塗るつもりか、僕は。この期に及んで“やめます”なんてありえない。それこそ無責任だ。


「わかりました」


「それって」


 今こそ男になれ!


「レネ、頑張ってみます」


「ありがとう」


「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」


「それでさっそくなんだけど、この舞台はジャンとレネの関係性がとくに大事だと思うんだ。もっとお互いのこと、よく知ったほうがいいんじゃないかなって」


 櫻井先輩の言うことはもっともだ。


「だからもう一度、自己紹介からちゃんと始めてみよう」


「え」


「まずは僕から」


 ここで櫻井先輩は、芝居より芝居がかったせき払いをひとつする。


「えー、名前は櫻井真鳴まなといいます。七月七日、七夕生まれ。蟹座のO型です。つい最近十八になりました。趣味は、なんだろ。やっぱり演劇かな。はい。じゃあ次、佐伯くんどうぞ」


「え。あ。はい。名前は、佐伯胤左かずさです。誕生日は、えっと九月十九日で、乙女座で、血液型はB型です」


「はい」


 すると待ってましたと言わんばかりに櫻井先輩は左手を挙げる。それはもう天を貫く勢いで。


 ようやく『レネ』役を射止めた現実を呑み込もうとした矢先、その一連の言動は突拍子もなさすぎて。

 なのに櫻井先輩はさらに左腕を畳んでは伸ばし畳んでは伸ばし、何度となく隣で挙手を繰り返すから、僕は挙動不審ぎみに思わず、「どうぞ」なんて授業中の先生みたく彼女を指名する。


「胤左の“胤”の字ってちょっと難しいよね」


「そうですね。あんまり馴染みのない漢字なので覚えづらいとは思います」


「ううん。そうじゃなくて、バランスっていうのかな」


「バランス?」


「うん。両端にこう、みたいな外ハネがあるでしょ」


 ボブ?

 

 ボブ。

 

 ボブ。

 

 ボブ?

 それは、だれだ。

 

 ボブ。マーリィ。たぶん違う。ならスクエアパンツの黄色いアイツ? 外ハネ要素はどこ? ああ、そうか。『ゴーストバスターズ』の。ううん、あれはビル。ビルは今は呼ばなくて大丈夫。

 ダメだ。全然思い浮かばない。


 巷では、その“ボブ”なにがしの話題で連日持ちきりだったりするんだろうか。テレビもそれほど見ないし、ロクにSNSにも触れない僕にとって、もしも時の人ならなおさら縁遠い。このまま適当に話を合わせてなんとなくやり過ごしてもいいけど、それは櫻井先輩に対してあまりにも不誠実な気もする。


「あの」


「うん」


「その、ビルってだれですか」


「ビル?」


「あ。違います。ボブです、ボブ。はい。ボブ。その、だれなのかなあって。よくわかってなくて」


 終始にこやかだった櫻井先輩の表情は、そこでクモの子を散らすみたいに弾けて跡形もなくなる。僕のひ弱な心臓はなす術なく縮み上がって、そして血の気が引く。あ。身に覚えがある、この感じ。

 

 中学で、根暗な僕にも快く教科書を見せてくれた、隣の席の広瀬さん。授業中にだけメガネをかける彼女の横顔が目に入るたび(つまりずっと)、勉強が手につかなくなる僕。

 とうとう席替えを明くる日に控えたある日、満を持しての僕の告白に返ってきた彼女の答えは、「だって佐伯くんとは話が合わなそうだし」だった。


 とかく流行りに疎い系男子は敬遠されがち。


 かと思えば、発声練習さながらのよどみない『あ』と『は』の羅列で、櫻井先輩は唐突に笑いだした。


「違う違う。ボブって、あは。人の名前じゃなくて髪型の話」


 赤っ恥をいたいつもの僕なら、居た堪れなくってマトモに顔も合わせられずにいるところ、今日は却って目が離せない。

 ほかのみんなは知っているんだろうか。櫻井先輩がこんなにも無邪気に笑うところを。ときおり目頭を押さえては心底おかしそうにお腹を抱える姿を。


「佐伯くんって、面白い人だったんだね」


 不覚にも僕はその笑顔にときめいた。少なくとも羞恥心すら片手間に追いやるくらいには。


 それから、ナニモノにも染まらない彼女の強い意志を体現したかのようなまっすぐな眉が、あけすけにその眉尻を下げてみせると、それは僕にだけ差し出されたお近づきのみたいで、“その笑顔のためなら僕はいくらでも道化を演じてみせよう”なんて。一生涯かけても口にできないようなキザなセリフがふっと思い浮かんで、すぐ消えた。

 

「あはは。そっか、ボブかあ。なるほどね。ボブってことはやっぱり男かな。でも女のボブがいてもいいよね。明日からボブって名前にしようかな」


 櫻井ボブ。


「昔からカッコいい名前に憧れがあったんだ。“スバル”とか“アキラ”とか“トオル”とか。なんていうのかな、一辺倒じゃない感じがして。いいなあって。だから胤左って名前、僕はすごく素敵だと思う」


「初めて言われました」


「ほんとに?」


「はい」


「見かけはちょっと無骨で男らしくもあるんだけど、音の響きには女性っぽさもあって、イイとこどりって感じがする」


「そうですか」


「だって真鳴なんて、まさに女の子って感じがしない?」


「それは。まあ。そう、ですかね」


「しかもO型とか見たまんまでしょ。佐伯くんB型なんだよね」


「はい」


「見えない。見えない。いいなあ、羨ましい」


 羨ましい? 櫻井先輩が僕を羨ましいって。そんなことってある? なんだかひたすらに夢見心地だ。


「あ。ごめん、続き。ご趣味はなんですか」

 

「えっと。趣味は、映画鑑賞。とかですかね」


「映画かあ。どんな映画が好きなの?」


「『天井桟敷の人々』が、いちばん好きです」


「全然知らないや。テンジョウサジキ」


「古い映画なんで、知らなくてもしょうがないですよ」


「それって駅前のレンタルショップにあるかな」


「有名な作品ではあるので、置いてありそうですけど」


「テンジョウサジキの人々ね。テンジョウサジキ、テンジョウサジキ。テンジョウサジキ。よし」


 街路灯の明かりが中空にパッと懸かった。見上げた櫻井先輩はまぶしそうにわずかに目を細めた。


「どうしようか、どこかでもうちょっとしする?」


 あんなにも光り輝いていた太陽はいつの間にか鳴りを潜めて、空には紫色に染まった雲が、どことなく手持ち無沙汰にたなびいている。どうやら僕と櫻井先輩は、校門の前で話し込んでしまっていたみたいだった。


「いえ。もう、大丈夫です」


「そう?」


「はい」

 

「佐伯くん、帰り道どっちだっけ」


「こっちです」


 僕は向かって左を指す。


「僕はこっち」


 櫻井先輩は右を指す。


「じゃあ続きは、また明日」


 そしてまた明日。明日があるって、それはなんて甘い響きだろう。


「はい。また明日」


 彼女は僕に背を向ける。そうして一歩、前に踏み出す。かと思いきや、すぐさま身をひるがえしてこっちに向き直った。


「言い忘れてたんだけど」


 その手にはさっきの『パインアメ』が小さく掲げられている。


「僕はどっちも好きだから」

 

 透明なフィルムを破り、櫻井先輩はドーナツ型の黄色いそれを口の中へ放り込んだのなら、僕に向かって二度手を振って、またうしろに振り返った。

 

 なんということでしょう。僕の独り合点で幕を閉じたはずの【『いちごみるく』『パインアメ』論争】は櫻井先輩の目にはまるっとお見通しで、この顔はまたしても真っ赤に熱を持ち始める。

 だけど、それよりなにより、さりげない彼女のそのやさしさったらない。


 “キミのキモチはちゃんと伝わってるよ”って、そんな少女マンガ原作のスパダリじみた態度見せられたら、だれだって『櫻井真鳴』という人間を意識せずにいられない(実際、櫻井先輩には女子のファンも多いと聞く)。

 ふたりの距離はほんの少し、近づく?


 トゥンク。

 

 それから、夕闇迫る街並みへだんだんと混じり合ってゆくその背中を、僕はただ、ただ、ボオッと見送っていた。宵の口のワンシーンにはたしかに僕が息づいていた。


 櫻井先輩の言ったとおり、ふたりは案外お似合いなのかもしれない。


 そうかな。


 そうかな。


 いや、ダメだ。もう忘れたのか、あの背筋も凍る告白劇を。ふたたびの黒歴史なんてゴメンだ。

 分不相応の恋が許されるのはスクリーンの中でだけと相場が決まってる。僕は与えられた役目をひたすら忠実にこなそう。それに徹しよう。うん。うん。


 足どりも軽やかに駐輪場へときびすを返すのだった。

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