ジャンとレネ②

「櫻井先輩」


 部室として使われていた空き教室は校舎の四階にあって、僕は一足飛びで一階まで駆け下りると、昇降口で見つけたそのうしろ姿につい勢いまかせに声をかけた。


「佐伯くん、どうかした?」


 振り向きざま、栗色のショートヘアがその耳もとで楽しげに跳ねる。ハ、ネル。なんてことない、たったそれだけのことで、僕は息を呑みそうになる。


「あの。ちょっとだけ。歩きながらでいいので、その。お話し、できませんか」


「うん。お話ししよう」


 それで僕はそそくさと上履きを履き替える。


 よくよく考えてみたら、櫻井先輩とこうしてふたりっきりで話すのは初めてだった。たまたま機会がなかっただけと言ってしまえばそれまでだけど、新歓公演で見かけた第一印象がどこかでまだ、尾を引いてたのかもしれない。

 

 あのとき僕はその顔つきに、口振りに、一挙手一投足にくぎづけだった。ほんの目と鼻の先、そこにはたしかにいるはずなのに、ちっとも手が届きそうにない。まるで夢と夢とを渡り歩くかのようなまなざしに、ともすれば射すくめられそうにもなる。

 ときたま客席から上がる悲鳴じみた黄色い声だって、櫻井先輩の耳にはてんで届いてやしないみたいだった。


 観客のほうへ視線を投げかけながらもその目はきっと、もっと、ずっと、だれも知らない景色を暗がりの箱庭の向こうに捉えていたんだ。

 

 そこには一体なにがある?

 

 表舞台になんて無縁の僕にしてみれば、それはずいぶん思い切った行動だったと思う。僕は、その視線の先にある世界の正体をどうしても知りたくなった。

 するといても立ってもいられなくなって、その日のうちに入部を決めたのだった。


 そんな出来事がつい昨日のことのように思い出されたとたん、僕は相談どころじゃなくなってしまった。


 横目で覗き見た櫻井先輩は鮮やかな西日を肩に受け、その横顔は、美術室に飾られた石膏せっこう像のようなするどい輪郭を、オレンジ色の空にポッカリと浮かべていた。


 黄昏たそがれ時のワンシーンには物語の予感がふんだんに散りばめられていた。そこに場違いな僕なる登場人物は現れない――遠目からこの光景を眺められたならどんなに素敵だろう。


 カツ。カツ。カツと。


 隣で軽快に打ち鳴らされる靴音が、一刻も早くここから立ち去れと僕の胸をせっつく。だけどその背中にたったひと声かけるだけで、今日一日分の勇気は底を突いてしまっていて、この身体にはもう、しっぽを巻いて逃げ出す余力さえ残されてやしなかった。

 そのくせ心臓の鼓動は独り歩きを決め込んで、持ち主である僕を置いてけぼりにぐんぐん遠ざかってゆこうとする。

 

 僕は命からがらその場から顔を背けると、踏み出した自分なりの一歩に合わせて鼻から深く息を吸い、また踏み出したもう一歩に合わせて音を立てないよう、注意深く息を吐き出した。

 

「ここ、イチョウの木がずららっと植わってるでしょ」


「え。あ、はい」


 ふたりは校舎から正門へと延びる石畳のアプローチの真ん中を、肩を並べて(実際は櫻井先輩のほうがずっと背が高い)歩いていた。


「秋になると葉っぱが黄色く色づいて、それがだんだん落ち始めて、それからこのあたりの地面みんな真っ黄色に染めるから、ほんとに絨毯じゅうたんを敷き詰めたみたいになるんだよ」


「そうなんですね」


「だれにも言ってないけど、このイチョウ並木目当てにここへ入学したんだ」


 それは、冗談? 僕を笑わせるための。


「佐伯くんは、何色が好きなの?」


「え。色。そうですね。しいて言うなら、青。とか――」


「青かあ」


 櫻井先輩は突然足を止めて、おもむろに目を閉じたかと思うと、生命維持のための荷物を全部まとめて放棄したみたいにピクリとも動かなくなった。体重のほとんどを失ってしまった華奢きゃしゃな体は、折からの風に吹かれ、今にも空へ飛び立たんとしていた。


 すると、ついさっきまでそこにあったはずの居心地の悪さはすっかり消えてなくなって、僕はいつ終わりが来るとも知れないこの長い沈黙をもう、いつまでだって待っていられたんだ。


「うん。青もいいねえ」


 小刻みにうなずきながら満足そうに目を開けた櫻井先輩は、またゆっくりと歩きだす。僕もすぐあとに続く。


「真っ青に高い空に向かって、うんと枝葉を伸ばす黄色いイチョウ並木。これってもしかしたら、うん。すごくお似合いなんじゃないかな」


 自信たっぷりに顔を出したえくぼが僕のほうへ向けられる。


「あの」


「うん」


「本当に、僕でよかったんですか」


 口にしてしまってからその発言がひどく傲慢で、不適切な言葉にも聞こえてきた。


「どういうこと?」


「僕は、男です」


「いきなり男前な発言だね」


「あ。いや。そうじゃなくて、あの。レネは女なので、やっぱり」


「女の子がやったほうがいい」


「はい」


「うーん。その理屈だと、僕はジャンの役を降りなきゃダメってことになる。女だから」


 櫻井先輩は生物学的には女だった。まぎれもなく。

 ところでその身体をこの手でもって隅々まで調べ上げたとか、そんな下卑た事実はなにひとつなく、新入部員を前にした彼女は自分からそう宣言したのだ。


 そして『ジャン』は男で、僕にとって青天の霹靂へきれきだったあの新歓公演の舞台でも櫻井先輩の演じていたのは、やっぱり男の役だった。そこに難癖つける野暮な人間はたぶん、ひとりだっていなかった。


 なぜなら、(僕を含めた)そんじょそこらの男じゃ太刀打ちできないくらいの説得力を彼女は身につけてて、それはひとえに私生活でまで一人称が“僕”だったり、サラリ着こなした制服は学ランだったり、そういった日々のたゆまぬ努力のタマモノに違いない。

 その中性的な顔立ちと浅黒い肌、男子にも引けを取らない背丈も相まって、あんまりにも板についていたから、僕はこんな的はずれな話を持ちかける始末だ。


「櫻井先輩は違います」


「違う? 違うってどう違うの」


 柄にもなく声を上げたせいで、顔全体がカアッと赤くなってゆくのが鏡を見なくたってわかる。


「櫻井先輩は、その。とても似合ってる。と思います」


 だから普段ならさして気にも留めないあの夕映えに、僕はかつてないほど感謝する。ありがとう。ありがとう。


「ありがとう。佐伯くんだっていざメイクして、あの緑色のドレスに袖を通したら、もっとかわいくなるよ」


 それは暗に僕がちっとも男らしくないって、むしろ櫻井先輩の目には女々しく映ってるって、つまりそういう意味だろうか。

 いや、この際そんなのは些末さまつな問題で、とにもかくにも、ド素人が主役を張るならそれ相応の覚悟と努力はあってしかるべき。それこそ普段着をスカートにするくらいの。

 

 ようし。心機一転、明日からはセーラー服に身を包み(僕らの学校では男女どちらの制服も好きに選ぶことができた。とはいえ実際に異性の制服を着た生徒を、僕は彼女以外に知らない)、たびたび鏡を覗き込む私。はたしてどうだろう。

 どうもこうもない。総毛立つ。


 だけど櫻井先輩の隣に立つんならこのまんまの僕じゃ、いくらなんでも見劣りがすぎる。


 あれ。ひょっとして。僕はとんでもない窮地に立たされているのでは。


 どうして野々ちゃんという、うってつけのに任せておけなかった。


「もしかして、レネ。やりたくなかった?」


「え」


「僕が“見てみたい”なんて言ったから」


 僕の背中を押したのはほかならぬ櫻井先輩、その人だった。


 性別しかり演技力しかり、なにもかも分不相応なのはハナからわかりきってたことで、主役の座がたまたま空いたからって、それで、「はい。やります」とは口が裂けても言えない。それはそう。


 どこにでもいる平凡な主人公は巡り合わせた王子様の手にかかり、見違えるほど洗練された女性となって社交界デビューしてしまう。

 そのひと言はたとえば、あたかも僕がそんなベタなシンデレラストーリーを地でゆくつもりにさせた。


「もしも本当にやりたくないなら、無理強いはしないよ。僕の無責任な発言のせいならよけいに」


 だからってそれが櫻井先輩のせいなわけはない。やると決めたのはほかでもない、この僕。


「そん――」


「もしくは、こういうのはどうかな。思い切って僕と役を取り換えてみる」


「役を」


「そう。僕がレネで、佐伯くんがジャン。どう。これなら普通でしょ」


 僕がジャンで、櫻井先輩がレネ。なるほど。それならはるかに合理的だ。ずっと自然な演技ができそうな気がする。


 バカな!


 思い上がるのも大概にしろ。お前に櫻井先輩の代わりなんて務まるはずない。


 大体、僕がジャンならとことん見栄えがしない。月とスッポン、『ノートルダムの傴僂せむし男』か『シラノ・ド・ベルジュラック』みたくなるのがオチだ(にしたってどっちの主人公にも僕は遠く及ばない)。これじゃ話がまるっきり別モノになってしまう!

 

「ジャンは櫻井先輩がやったほうがいいです。絶対に」


「おお。きみにそんなふうに言い切られると思ってなかったから、なんか嬉しいなあ」


 僕の顔はもう、太陽とタメを張れるくらいには燃え盛っていた。

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