ジャンとレネ①

「というわけで厳正なる投票の結果、レネ役は佐伯くんに決まりました」

 

 僕がレネ。


 僕がレネ。


 へえ。


 僕が、「え」レネ? 本当に?

 

 たしかにいつかは大きな役をこなせるようになれたらいいなあ、なんてことを漠然と夢見たりもするにはするけれど、それは例えるなら成績がオール『10』だったらいいなあとか、背中に羽が生えて空を飛べたらいいなあ、それなら毎朝ギリギリまで寝てられるのにとか。


 あとは、あとは、転校初日の食パン少女にあの曲がり角で出くわしたりしないかな。

 あ。でも、自転車の僕とぶつかったりしたら彼女はタダじゃ済まないだろうし、恋が芽生える前に、ふたりの関係が修復不可能なほどの深いわだちに引き裂かれてしまうくらいなら、僕も徒歩での通学に切り替えてゆくべきかもしれない。


 とか。

 

 とにかくそんな安っぽくて、俗っぽくて、差し当たって実現する目途なんてこれっぽっちも立ってない、言うなれば妄想のたぐいとおんなじで、本当に、ほんとなんだろうか。

 するとだれからともなく拍手が湧き起こる。

 

 約16年に及ぶ自分の人生を振り返ってみたら、家族以外からこんなふうに華々しく祝福された場面が何度あったろう。それは往々にして入学式だったり卒業式だったり、僕を含めた大多数の、というか、僕以外の大多数のためその拍手は振る舞われていたような気がする。

 だからここにいる、10人にも満たない部員の手と手から打ち鳴らされる音色だって、僕の頭の中ではSEみたいに、妙によそよそしくリピートされてしまってる。


「どうぞこれからよろしくね」


「あ。はい」


 僕は僕がレネだと言い張る目の前の櫻井先輩を、ブシツケにもいぶかしんだ。そして自分自身を存分に訝しんだ。はあん。


 たしかに以前と比べたら、さっきの出来はいくらかマシになったと言えなくもないかもしれない。


 それはそれとして、ついこのあいだまで演技の“え”の字も知らなかったズブの素人である僕は、このまま順当にゆけば仰せつかった大役のその重圧に押しつぶされた挙句、本番で目も当てられないほどの失態を演じてみせるのはそれこそ火を見るより明らかだし、それってつまり、せっかく地区大会を突破して手に入れた千載一遇のチャンスを棒に振る行為だ。


 この舞台で櫻井先輩が花道を飾るつもりならなおのこと、こんな暴挙まかり通っていいはずない。


 どう贔屓ひいき目に見たって不可解だ。ふうん。これは、もしや、綿密に仕組まれたドッキリかなにかなのでは。それで僕は透かさず辺りを見回す。

 けれど、はたしてそこには何者かの思惑が人知れず働いていた、なんてことはもちろんなくて、この結果は演劇部に所属する生徒、ほぼ全員の投票によって導き出されたものなんだからまったく公平であるはずだ。


 大体、僕をからかったところで面白くもなんともないし、本番までおよそ二週間のこの時期に企画するイベントじゃない。


 うん。

 

 あるいはこの閉鎖空間で突如、僕の拙い演技が格段に向上して見える集団幻覚が引き起こされていた?


 それとも簡易的に投票箱として使われた、かつてチョコレートクランチが収納されていたあのスーベニア用のブリキ缶に、投票用紙に書かれた名前を、適切な割合で『野々』から『佐伯』に書き換える機能が搭載されていた?


 いやいや、もっと単純に櫻井先輩が名前を読み上げ間違えただけとか。


 アレコレ考えを巡らせてはみたものの結局、どれも現実的とは言いがたいシロモノだった。


「本番まで時間もないし、突然のキャス変でいろいろと戸惑うところはあると思うけど、みんなもよろしくお願いします。もし心配事や問題のあるときはいつでも相談に乗るから、気軽に声をかけてくだい。それじゃあ、あらためて県大会へ向けて頑張っていきましょう」


 櫻井先輩は劇中の『ジャン』さながら、人の良さそうな顔をしている。そこにだれかを陥れようだなんてヨコシマな企みの影は微塵みじんもない。


 そして三々五々、部室を後にする。


「カズくん、おめでとう」


 パタパタと忙しない足音を立てながら、僕の左腕にスルリ右腕を絡ませてくるのは野々ちゃん。(その過剰なまでのスキンシップに目をつむれば)今日も今日とてなんていい子なんだ。

 今の今まで『レネ』を巡ってふたりはライバル関係にあったはずなのに、それをおくびにも出さず、満面の笑みで僕を祝福するあなた。


 きっと他人を妬んだり、疑ったことすらただの一度もないのでしょうね。


 これは皮肉でもなんでもなくて、僕は野々ちゃんのそんな振舞いを目の当たりにするたび、己の下心を思い知らされた気になって愕然がくぜんとする。

 

 彼女は僕の名前を聞くなり、初対面で“カズくん”呼びを始めたばかりか、たちまち息するみたいに、僕が口をつけたコーヒー牛乳を当たり前におんなじストローを使って飲んでみせるから、しばらく僕は本気で彼女が僕に気があるものだと、ありもしないアオハルに取り憑かれていたのだった。


 なんせ生まれてこの方、お付き合いはおろか女友達でさえマトモにできた試しがなかったのだから、さもありなん。


 姉もいなければ妹もなし。毎朝僕を起こすため、甲斐甲斐しく部屋に上がり込んでくる幼馴染だってどこにも見当たらない。身近な異性といったら、それは母親だ。

 とどのつまり、この身体には女性に対する免疫が、今に至るまでほとんど生成されてこなかったのである。


 ゆえに、僕なんかに律儀に挨拶をしてくれた“彼女”を目で追うようになり、僕なんかの机に腰を下ろしては、僕以外のだれかと話し込む“あの子”を思うと夜も眠れず、僕なんかの消しゴムを拾ってくれた、その上、へばりついたホコリまで丁寧に払い落としてくれた“きみ”に胸ときめかせた。


 心奪われた乙女たちは数知れず。そのいずれもが明けの明星のごとくはるか上空できらめいて、朝が訪れるにつれ、目が覚めるにつれ、手も足も出ない僕の前からすっかり消え去った。


 そして例によって、野々ちゃんの未曽有みぞうの思わせ振りな態度に(実際のところ、彼女は極端にパーソナルスペースの狭い人間だった。つまりこれっぽっちも他意なく悪意なく、だれ彼構わず気安い態度を取るのだ)まんまと当てられてしまった間抜けな男は、性懲りもなく、よっぽど告白に踏み切ろうとまで思い詰めていた。

 

 しかしながら高校生となった僕はひと味違った。イザというときのため、制服のポケットには手鏡を忍ばせてある。人目を忍んでそいつをのぞき見る。


 とそこには、エドワード・ファーロングはいない。リヴァー・フェニックスもいない。そこにいるのはえないメガネと野暮ったい髪型、伏し目がちな見るからに頼りない僕。案の定、僕はただの僕でしかなかった。


 ――だれがお前を好きになるっていうんだ。


 う。うう。ぐぎぎぎ。


 そうやって日ごと、血涙を絞りながらかろうじて正気を保っている。

 

「さっきのお芝居すっごくよかったよ」


 とはいえ僕も思春期男子の端くれ。向こうにその気がないのは百も承知の上でそれでもなお、ボディタッチにはおいそれとは抗いがたい魅力がある。


「野々ちゃん(胸が)。あの(胸が)。腕(胸が)」


 ああ。彼女は僕の『レネ』就任を純粋に喜んでくれているというのに、僕ときたらべらぼうにゲス野郎だ。こうなったらイメージだ。イメージをしろ。


 これは。頭の上でふたつに結われたお団子ヘアも相まって、そう。彼女はまるで小動物。やたら構ってほしがる仔犬のようで――。

 そうか。そうだ。これはまるっきりチワワとのじゃれ合いなんだ。ようし。ようし。


 平静を装いつつ僕が距離を置こうとすれば、「ふたりの演技に圧倒されちゃった」いっそう前のめりになる野々ちゃん。


「野々ちゃんのほうがすごく、上手だった」

 

 彼女がこの学校でたったひとり、僕を“カズくん”と呼ぶように、僕が“野々ちゃん”とちゃん付けで名前を呼ぶ相手もただひとり、彼女だけだった。


 本人たっての希望(本当は水青みおちゃんと呼ばれたがっていた。だけどいくら同い年だからって初対面で下の名前を呼ぶなんて、いいや、知り合って数カ月を経た今となってもあまりにもハードルが高すぎだ)というのもあったけどいちばんの理由は、野々より野々のほうがずっとしっくりきたのだ。口当たりがいい、というか。


 そう呼ばせてしまうくらいの無防備さが彼女には備わっていた。


 それがたまに子供っぽすぎるキライはあるものの、レネという役を演じる上ではそれこそ願ったり叶ったりだから、現状なら野々ちゃん以上の適役はないと断言できた。おまけに舞台の上だろうとどこだろうと少しも物怖じしない。


 その彼女を差し置いて僕が選ばれた。男であるはずの僕が――なにより『レネ』はどっからどう見たって女の子だ。それは大前提として。

 もちろん、この役を与えられたのが僕でなくビョルン・アンドレセンなら当然、話は変わってくる。


 ぐぎぎぎぎ。

 

 そのとき、半袖のワイシャツに真っ黒いスラックス、ひとり教室から出てゆくすっかり制服姿の櫻井先輩が目に留まる。人目もはばからずその場でそろいの制服に着替えたら、僕は野々ちゃんとのやりとりを半ば強引に切り上げて跡を追っていた。

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