12

 大学へ進学する時になって、ふうりとわたしは初めて違う道を歩むことになった。もしかすれば本当はずっと以前から全く逆の方向を行っていたのかもしれないが、見えない心の距離でなく、真に視界に捉えられないほどの物理的な距離の隔たりが生まれてしまうのは今までにないものだった。もはやわたしの手の届くところにふうりは留まってはくれず、いつまでも繋ぎ留めておきたかった彼女の肌はわたしの触れられない範囲へ晒されていった。そのような変化を嘆くべきか、あるいは喜ぶべきなのか、その頃のわたしはもう自分の感情を定めることすら億劫になってしまっていた。離れてしまったと捉えるか、離れられたと捉えるか、選択の自由はわたしにあるのに、どちらかに決めきることはなにより自らにとって理不尽な行為に思えた。

 高校時代に一線を越えた男と、ふうりは大学生になってからも交際を続け、彼女がひとり暮らしを始めてからは半同棲状態となった。このまま何事もなく関係が続けばいずれ二人は結婚してしまうのだろうと、就職する頃のわたしは確定事項のように思っていた。連絡を取れば聞かされるのは惚気話ばかり、たまに愚痴っぽくなることはあってもそれらの話もすべて愛情のこもった声で語られていた。ふうりは永遠を夢見てるのだな、とわたしは彼女の話を聞き流すようにしながら、実際にはひとつ残らず取りこぼさず聞いていた。そんなものありえやしないと言ってしまいたかったが、けれどもしかして夫婦にならありえる話なのかもしれなかった。それが幸福か不幸かは別の問題として。

 言葉の中に認められた関係が、「夫婦」として規定されうる関係性が、その頃になってようやく心底恨めしくなった。恨めしいとは翻せば羨ましいと同義だった。それならばわたしの方にも「親友」という言葉があったではないかと、思い出す度自分を慰めようとして、しかし不満に思う気持ちは根絶されることはなかった。かといって、どうしたいということはもっとないのだった。強いて言えばどうもしたくなかった。どうもしないままあの男が消えてしまえばいいと思っていた。それこそありえない願いだと知りながら、わたしは日々を憂鬱に過ごした。けれど願いはある日突然叶った。

「別れようと思ってる」

 夜中に他愛ないメッセージのやり取りをしていたところ、ふうりは急にそう告げてきた。驚いたわたしは突発的に電話をかけ、コール音が鳴り止んだかと思えばすぐに聞こえてきたのはふうりのすすり泣きだった。

 ふうりは取り乱し、わたしがなにを訊いても「わからない」を繰り返した。向こうが浮気したわけでも、ふうりに他に好きな人ができたわけでもないようだった。話を聞きながらわたしはだんだん不安を覚えた。ふうりの中で別れたい理由が論理的に出来上がっていないのならば、同じように根拠なく別れを取り消す可能性も残されていると思った。

 わたしは確証が欲しかった。別れの確証を得た上で安堵し、喜び、感謝したかった。それでわたしは焦った。上手く筋道を立ててふうりを納得させるつもりが、誤ってわたしがこれまで思ってきた相手の男の悪口ばかりを彼女の口から言わせようとしてしまった。「ちがう、ちがうの」とふうりは否定し続け、気付いた頃には初めより激しく泣きじゃくってしまっていた。わたしはなにか取り繕う言葉をかけてあげようとして、しかしふうりの大声に遮られた。

「だってもう好きじゃなくなっちゃったんだもの」

 答えはシンプルだった。それゆえに感情的で、非論理的で、だからこそ熱量は凄まじいものだった。ふうりの心の底からの叫びだった。

 その瞬間、わたしはついに知ったのだった。ふうりが男たちに向けていた感情と同じように、わたしがふうりに抱き続けていた想いもまた一抹の恋だったことに、その声を聞いてようやく理解させられた。それまでのわたしは本当に微塵も知らなかった。自分の中にある感情が恋であることを全く知らなかった。すべては愛だと思い込み、それだから想いを告げる必要さえ感じたことは一度もなかった。わたしはずっと見て見ぬ振りをしていたのだ。自らの内に巣食う後ろ暗さや嫉妬心が、ふうりとわたしのかたちない特別な関係に由来するものでなく、ひとえにわたしのふうりへの恋心に起因する、たったそれだけの普遍的な情動だったことを、ずっと認めたくなくて、それゆえにいつまでも変わらない日々を求めていたのだったと、ようやく思い知らされたのだった。

 なぜふうりの恋が終わったことで、わたしがそれに気付かされたのか、論理は今なおわからない。けれどもふうりの叫び声を聞いたあの時、わたしははっきりと思い知らされたのだった。今後人生のどの過程においても、ふうりがわたしに恋をすることはありえないという事実を、彼女に焦がれ続けていたわたしは会話もなく悟ってしまった。そして同時に気付いた。

 恋は、終わったのだった。自覚したと同時に、かたちは崩壊し、修復不可能なまでにそれは生命を断った。きっと初めからわかっていたことだった。わたしはずっとわからないつもりでいたかった。けれどそれももう叶わなかった。わたしの恋は終わりを迎えた。



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