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 あの時どうすれば結果に繋がったのか、そういう反省を逐一積み重ねることで人は成長するのだと、学生時代も社会人の今になってもあらゆる方面からそれと類似した言葉を耳にしてきたが、それならば求めるべき結果など微塵も見当たらなかったあの頃のわたしはなにをどうすべきだったというのだろう。

 当時のわたしが願っていたのは、ただ現状がどこまでも延々と続いてゆけばよいと、それだけに単純な、しかし到底実現できそうもない浅はかな夢だった。思い描くままに胸に抱いた想いだったから、それはやはり、どう足掻いても理想のままにあり続けることはなかっただろうと、ここまで来てしまってなお諦め悪く振り返ることが度々ある。しかし幾度振り返れど、こうしておけばよかったなどという具体的な解を得られたためしはない。それだから、やはりあの頃のわたしに許されていたのはひたすらに、祈ることとともに諦めゆくことだけだったろう。月日は変化していた。その中でふうりは変化し続け、変化を求めないわたしは、それでも追いつかねばならなかった。たとえ一切は嘘でしかなかったとして。

 ふうりは最初の彼氏とは三ヶ月ともたず別れを迎えた。夏の訪れとともにひとりに戻ったふうりはわたしの元へ帰ってきて、すぐ真横にいつもふうりがいる状況はわたしに再び永遠が舞い降りたのだと誤解させた。気を緩めたわたしが注視を怠るうち、ふうりは新たな恋を探し始めていた。夏が終わるまでに次の男は見つかった。その時点ではわたしはまだ余裕を保っていた。どうせまたすぐに消えてしまうような拙い恋だろうと、軽蔑に近い感情を抱いてさえいた。しかしその男とふうりの関係は長く続き、それこそ永遠なのかと疑ってしまえるほどに途切れる気配を見せなかった。秋も冬もなにひとつ変わらず過ぎていった。すべては悪夢へ変化してしまっていた。

 高校三年の一学期が終わる直前、わたしは関西に住む祖母を亡くした。祖母は長いこと患っており、数年前からはほぼ寝たきりの状態が続いていたために、彼女の訃報はわたしにとってある程度覚悟のできていたものだった。心では確かに悲しみや虚無感が湧き起っていたものの、涙の方は込み上げる気配さえ感じられず、翌朝になって家族と新幹線に乗り込んでからもそれは変わらなかった。車窓に流れる風景を眺めながら、わたしは自分という人間のどことない冷たさを自覚していた。こんな人間だからふうりの恋に共感を寄せることもできず、いつまで経ってもひたすら嫌悪感しか抱けないでいるのだろうなと思った時、手の中の携帯が震えた。

 開くとメールはふうりからだった。授業中だったからだろうか、文面には短く「だいじょぶ?」とだけ書かれてあった。「だいじょぶ」と返事して携帯を閉じると、ふいに目頭が熱くなってきて、わけがわからなかった。俯いて両目を閉じてなお瞼は震えていた。

 ふうりの手が、ふうりの指がわたしの頬を拭ったような気がした。それで泣くのはどうにか耐えられた。頬が熱かった。新幹線の座席の上で、きっとわたしは誰よりも酷い人間だった。わたしは歓喜に震えていた。祖母を喪ったことで手に入れたものの大きさは計り知れなかった。さりげないたったひと言、しかしわたしにとってそれはなにより焦がれていたひと言だった。

 翌日の夜には東京に戻り、帰宅した時には既に零時を過ぎていた。風呂に入るよりなにより先にわたしは携帯を取り出し、「帰ってきたよ~」と絵文字付きでらしくない報告メールをふうりに送ると、すぐに返信が来た。「おかえり! 大変だったね」とのねぎらいの言葉のあと、改行して「今、電話しても平気?」とあった。なんだろうと首を傾げつつ「平気だよ」と打つと、それから間を置かずコール音が鳴り響いた。

「あ、ごめん。急に」

 ふうりの声が耳元に響いて、深夜だったせいもあるのか、わたしの胸は高鳴った。こんな時間にふうりがどうしてもと電話をかけてきたのが嬉しく、その嬉しさのせいで高揚したわたしは、ひたすらポジティブな感情だけを抱いて続く言葉を待った。

「てか、大変だったね」

「うん、でも大丈夫」

「ほんと? 無理してない?」

「全然、全然。ありがと」

「そっか、ならよかった」

「で、なんの話なの?」

 しびれを切らしたわたしは問いかけ、ふうりの声に含まれる迷いを断ち切った。電話の向こうの彼女は肝心のことを話したいのにどうにも話し出せないという雰囲気を放っていた。ああ、別れ話か、と脳裏に明るい影が過ぎった。

「あのね、昨日、しちゃった」

 声は浮かれていた。浮かれてなお恥じらいもあるのか、言葉はひとつずつ飲み込むように発せられた。合間に吐息があった。吐息が漏れる度わたしの呼吸の音は止まった。

「しちゃったの」

 声を失くしたわたしの意識を引き戻すように、ふうりは声を強めて再度言った。強められた声は、それでも浮かれたまま、けれどなお恥じらいもあった。わたしはなにもかも聞き取っていた。意味をこぼすことなく、ふうりの感情を丸ごと聞き取っていた。そうしてわたしが最後に心打たれたのは、そんな言葉だというのに、やはり甘さなのだった。ふうりの声に溶け残るのは、底なしの甘さだけだった。

 どんなにわたしが願おうと、ふうりが言う「しちゃった」というのはキスのわけがなく、まして単なるハグでも手繋ぎでもないことを、いちいち考えなくともわかりきっているのに、一ミリも残ってはいない可能性にかけてしつこく拘泥し続けようとする自分はどこまでいっても気色の悪い生物だった。そんなわたしを嘲笑うように頭の中では新幹線が田んぼの真ん中を突っ切ってゆき、通り過ぎた跡に薙ぎ倒れた稲穂の無残な姿を見つめるのは置いてけぼりにされたわたしひとりだった。新幹線の中で並び座るのはふうりと男だった。高速で離れてゆく二人をいつまでも見送るのは、キスもしたことのないわたしだった。

「そっか」

 わたしは言い、しかしそれだけのことを言うのでやっとだった。やっとなのに、それでもまだ頑張ろうとしてしまうのは、やはりどうしてもわたしにはふうりが必要だからだった。ふうりを失いたくなかった。それさえ叶うならば、代わりに喉を裂いてでも失くした声を取り出せばいい話だった。

「えー、てか、マジか。先越されちゃったじゃん」

 笑い声混じりに冗談めかして言うと、緊張が解けたのか、ふうりも大笑いしながら応答してくれた。「まほろだってすぐだよ」と少しばかり優越感を滲ませてふうりは言い、続けて「まず彼氏作んないと」と、どうやら本気なのかいやに落ち着き払った声音で語り始めたので、わたしはそれを遮るようにして「で、どうだった?」と口にした。

「よかった?」

 どうしても訊きたかった。答えは聞きたくもなかった。

「……うん」

 躊躇いの分だけ効果的だった。ふうりは肯定した。「よかった」と噛み締めるように言って、だから、その肯定は結果として微塵の否定の可能性をも持ちえなかった。百パーセントか、とわたしは思った。純度百パーセントの「よかった」だった。

 グロテスクだった。こんなにもグロテスクな思いをすることがあるだろうかと、「よかったじゃん!」と歓喜して祝うわたしは今にも吐いてしまいそうだった。今ここで泣いたり怒ったりできればどれほど救われるだろうと思い、しかしそれと引き換えふうりとの友情を未来永劫失うはめになるのはわかりきっていたから、わたしに許されるのはひたすら喜び続けることだけだった。惨めだった。辛いのは当たり前で、しかしなにより惨めさが強かった。こんなひどい晩は今夜だけだと、今日を限りこんなにも惨めさを感じることはないはずだと、それだけを慰みにわたしは笑い続け、ふうりを喜ばせた。恥ずかしさを絶えず纏いながら喜ぶふうりはその晩いつまでも愛らしかった。愛らしさの中に憎らしさを見出せればどれほどよかっただろう。それでも憎らしさなど欠片も見つけられなかった。



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