中学時代のふうりはわたしの記憶の中で最も強烈な存在として焼き付いている。思春期真っ只中の記憶であるから当たり前のことではあるのだろうが、それにしてもあの時期のふうりは周囲とは比較にならないほど感情豊かで、そのせいで彼女の中の過敏で繊細な部分も刺激を受けやすく、心も身体も常に不安定に揺らめいていた。

 クラスの中では明るく気さくなキャラクターを装い、小学生の時にはあまり見られなかった思いやりを習得したふうりは女子友達の間の人望も厚かった。けれどその分無理も十二分にしていたのだろう、わたしと二人きりになると途端に口数が減り、暗い表情でぼんやりとしている時間も多くあって、言うなればあの頃のふうりは軽い躁鬱状態にも近い状況にあった。心の状態に応じて食欲や睡眠の量も激しく乱れ、そのためにおよそ三ヶ月周期で太ったり痩せたりを繰り返していた。

 なにがそこまでふうりを悩ませてしまうのだろうと、わたしは長いこと疑問に思ったまま、それでも原因はさっぱりわからないためにどうすることもできなかった。ただ、ふうりはわたしといる時だけは素の状態に戻ってくれたので、わたしがずっと側にいさえすればだんだんに改善もされてゆくのだろうと、随分楽観的に考えてしまっていた。

 二年生の秋の終わりのこと、ふうりは学校を一週間連続で欠席した。ちょうどインフルエンザが流行し始めた季節で、ふうりもまたその波に飲まれたのだろうとこともなげに考えていた。しかしいつまで経ってもふうりの欠席はインフルエンザの出席停止扱いになることはなく、また毎日のようにやり取りしていたメールさえ一通も届かない状況が続いたため、欠席五日目になってわたしはようやくふうりの家にお見舞いに行った。

「おそいよ」

 パジャマでベッドに寝そべったままのふうりは開口一番そう放った。その頃のふうりは彼女史上最高潮に太っていて、布団からはみ出た腕や足首がぽっちゃりとして、全体的なフォルムも丸くてかわいかった。けれどその日ふうりの母から彼女がこの五日間ちっとも食べていないことを聞かされていたわたしは、この愛らしい外見が再び目も当てられなくなるほど痩せ細ってしまうのを予見して、悲しい気持ちになるのを抑えきれなかった。それが表情に出てしまっていたのだろう、ふうりはこちらを見上げると、わたしの悲しみに同調するように唇を震わせ、肉の付いた頬を真っ赤に染めて大声でわんわん泣き始めた。

「笹崎くんにデブって言われた」

 ひとしきり泣き終えたふうりが小声でぽつりとそう告げた時、わたしは困惑せざるをえなかった。思わず「それで?」と聞き返すと、ふうりは「それだけ」と言って布団に顔をうずめた。わたしはさらに戸惑い、もっと話を聞かねばと再び口を開きかけたが、ふうりは布団から顔を上げることはなかった。仕方なしにわたしはひとりで考え始めた。けれども当時のわたしは男子は誰であれバカであるという前提を信じて疑わず、それゆえ男子の言うことなど一ミリの信憑性もないのだとまるで周知の事実のように思い込んでいたので、なにゆえふうりはそこまで傷付いてしまっているのだろうかと不思議でならず、慰めようにもどんな言葉が適切なのかわからなかった。それでもそこで諦めしまうわけにはいかなかった。ふうりにわかってわたしにわからないことがあるはずもないと、それまでずっとふうりを通して世界を見てきたわたしは信じていた。だから逆に考えれば、わたしにわかることをふうりがわからないはずはないと、気持ちを定めたわたしは言った。

「男子なんてクソだよ」

 驚いたのか、布団からゆっくりと顔を出したふうりの目は丸く見開かれていた。その目に向かってわたしは繰り返した。

「男子は皆、クソだよ」

 続けて「笹崎だってクソだよ」と言ってから、そういうと笹崎ってどんなやつだったっけ、と笹崎の顔を思い浮かべようとしてみたが、わたしの記憶では彼の顔は輪郭すらもぼんやりとしたままだった。

 ふうりが息を吐くようにぷはっと吹き出して、わたしは我に返った。

「そっか」

 言いながらふうりは腹部を手で押さえるようにして文字通りあっはっはと大声で爆笑し始めた。

「そうだよね。クソだよね」

「そうそう、クソだよ」

「クソだクソだ」

「クソクソ」

「男子なんて嫌いだ」

「嫌いだ嫌いだぁ」

 言い合ううち二人ともテンションがどんどん上がっていって、最後には二人揃って笑いこけてしまっていた。ふうりは未だ目に涙を滲ませて、それが悲しみゆえか笑いゆえかわたしは深く考えることもせず、ひどく満足していた。思えば中学に入学してからふうりの考えていることがわからないことが増えて、彼女の感情を上手く追跡しきれない自分にもどかしさを感じることも多かった。それがここまで同じ気持ちを共有することができるなんて、わたしは昔に帰ったようで嬉しくてたまらなかった。笹崎よ、いいきっかけを与えてくれてありがとうと、冗談ではあるが顔を知らない彼に向かって礼を言いたい気持ちにさえなっていた。

 ふうりは吹っ切れたのか、それからの彼女の瞳にはあまり揺らぎの影が浮かぶことはなくなり、常に彼女を取り巻いていた憂鬱な空気は徐々に削がれていった。心の安定は身体にもよい影響を与え、あんなに振り幅の激しく変動していた体型もほどよい具合に落ち着き、ようやく健康を手にしたふうりはそれまでの分を取り戻すように生き生きと動き出した。

 本来の彼女の持つ生命力はみるみるうちに発露され、きらめきはおのずと周囲の人間を魅了し始めた。三年生になる頃には、ふうりは学年の中で一番人気のある女子のひとりとなっていた。おしゃれやメイクに目覚めたふうりは付き合う友人も変化し、わたしはかろうじて帰り道では一緒にいられたものの、校内では気軽に声をかけられないほど距離が遠く離れてしまった。

 派手な女子グループの中でお喋りに興じるふうりはいつもきゃっきゃと楽しげな声を上げ、時折声を潜めているかと思えばそれは毎回決まって男子についての会話だった。男子はクソだと二人で罵り合ったあの時間は一体なんだったのだろうと、わたしはその場に遭遇する度なんとなく寂しい気持ちになったが、それでもふうりがわたしと友達をやめないでいてくれる現状に感謝して、彼女に直接それを問おうとはしなかった。

 中学生活最後の一年はあっという間に過ぎてゆき、高校受験も終えてわたしとふうりは無事同じ高校へ進学できることになったものの、二人の間にできた溝は変わらずそこに有り続けていた。それが再び埋まることになったのは、皮肉にも例の笹崎のおかげだった。

 既に二月も末だった。その日は霙に近い冷たい雨が朝からずっと降っていて、分厚い雲が空一面を覆い尽くしていた。用事があるから先帰ってていいよとふうりに言われたわたしはなぜだか帰宅する気になれず、待ってるよと言い残し図書室へ向かった。さして興味もないタロット占いの歴史について書かれた本を読みながら待っていると、ふうりはものの十分もしないうちわたしのところへ戻ってきて、まほろおまたせ帰ろう、と頭上から早口に声がけられた。その声の妙に尖って頼りない感じに違和感を覚え、見上げると俯いたふうりの表情はあからさまに死んでいた。

 前髪で隠しているつもりのようだったが両の瞳には深く影が差して以前の不安定なふうりそのものの目をしていた。どうしたの、と、考える前に声が出ていた。けれどふうりはわたしを無視して図書室の出口へ向け早足に歩き出してしまったので、慌てて追いかけ再度問いかけてみたものの、ふうりは顔を左右に激しく振るばかりでなにも説明してはくれなかった。あまりの態度にわたしは同情よりも苛立ちを感じ始め、思わず強い力で前を歩くふうりの腕を掴み上げたところ、ふうりは勢いよく振り返ってわたしの身体にしがみついた。

 動揺したわたしがその場で硬直していると、ふうりはわたしの胸に顔を埋め、静かに泣き始めた。声を押し殺し、肩を震わせ泣くふうりの背中はひどく小さく見えた。幸い廊下にはわたしたち以外誰もいなかった。降りしきる雨の音だけが薄暗い空間にこだましていた。

「笹崎くんに告白した。でも駄目だった。普通に断られた」

 呼吸の合間にふうりはどうにか言ったが、言われたわたしは途方に暮れてしまった。笹崎といえば一年前ふうりにデブと言ってきた張本人で、その件があって以来わたしは彼の顔や性格の子細を遠目ながら念入りに観察していたが、はっきり言って容姿はありふれた程度のもので、性格に至ってはそれ以下だった。教室では常に他の男子とうるさく騒ぎ回り、そのためか陽気なキャラだと誤解されがちで友人も多かったが、根が陰湿なのは直接関わり合わなくとも容易に見て取ることができた。仲間内では頻繁に誰かひとりをターゲットにしていじめに近い嫌がらせをしていたし、定期的に入れ替わるそのひとりを暗に選んでいるのはいつも笹崎本人で、彼だけは絶対ターゲットに陥れられることがないのも丸わかりだった。言うなれば笹崎とは中学生にもなって未だ質の悪いガキ大将のような人間だった。そんな人間にわたしの知らないうち惹かれていたふうりがわからなかった。そもそも目の前で悪口を言ってきた相手に本気になるだなんて、男女間の心の機微など理解したくもなかった当時のわたしにとって、残酷なほどに不可解な心理に思えた。

 だからあれほどクソだって言ったじゃん、とわたしは言いたかった。男子なんてクソだし、クズだし、ゴミだし、笹崎に至ってはその三つを足し合わせて百倍にしてもまだ足らないくらいの最低な輩だと、心のままに吐き出してしまいたかった。それでも言えなかったのは、それらわたしの本心そのままに汚れきった言葉はどう伝えようとふうりを傷付けてしまうだろうことを、当のわたしがよく理解していたからだった。

 ふうりの背中に手を回し、軽く抱くようにしながら、わたしは無言のうち思った。ずっとこの背中を抱き締めて、側にいて守ってあげたいと、見返りも求めず思っていた。



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