夢とうつつの境目をさまよっている時、いつもわたしを引き戻すのがふうりの持つ愛らしさだった。どんな場合もふうりの愛らしさだけがわたしにとっての真実だった。ふうりの指がわたしの肌に触れたように、それは絶対的な感触であり続けた。そういう意味でわたしにとってふうりはどこか他人ではない、どうしても離れがたく自分として捉えてしまう部分がある。それだから他人がどれほど彼女を嫌ったとして、わたしだけはいつまでもそうはなれないだろう。もはや好きとか嫌いとかいう話でもなかった。ふうりというのは、いつの間にわたしの身と心の一部となってしまっているのだった。

 まだ少なからず無秩序と無邪気さを取り残していた幼稚園時代を終えて、わたしたちが小学生になってしまうと、季節がおのずとその時期のあるべきかたちを追い求めてしまうように、こどもの社会もみずから序列や約束事を整備して、生きやすいのかあるいは生きにくいのか、もはや自分たちでもわからないほどに結束を固めゆくのだった。

 ふうりはその頃になってもなおわたしの手を引いてくれていた。最初になにかに触れるのはいつもふうりからで、わたしはふうりが触れてからでないと触れる気にもなれなかった。なにに対してもそんな具合だった。教科書も鉛筆もランドセルも、先生や友達でさえ、ふうりを介さなければ馴染めやしなかった。そのくらい当時のわたしはふうりに頼りきっていた。だからきっとそのようなわたしの態度が皆を誤解させたのだった。

「まほろちゃんてかわいそう」

 確かあれは、あきみちゃんとなつなちゃんという二人組の女の子だった。二人はわたしとふうりのように学校のどこでも常にくっ付き合っていた。あの日、昼休みの校庭の隅にわたしたちはいた。ふうりはその日珍しく熱を出して学校を休んでいた。ふうりがいないと自分の席以外に身の置き場もわからないわたしは一日中俯いて早く下校時間が来るよう祈り続けていた。ところに二人が一緒に遊ぼうと誘ってくれたのだった。二人はいつも遊んでいるという、プールの金網近くの南天の木がたくさん生い茂って陰深いところへわたしを案内した。ちょうど南天の実が付き始めた頃で、まだ完全には赤く染まっていない実の塊を見つめながら、わたしはふうりが以前に南天の実を食べようとして彼女の母にこっぴどく怒られていたことを思い出した。その時急に二人のどちらかがわたしを可哀想だと言ったのだった。え、とわたしは思い、二人の方へ顔を向けると、彼女たちはちょっと目配せしてから二人して同じ哀れみのこもった目でわたしを見た。なんで、どうして、と、わたしはなんとか口を動かそうとしたが、できなかった。暗がりの中であきみちゃんとなつなちゃんの顔はどちらも白く浮かび上がって見えた。その光景に恐怖を抱くとともに、ひどい疎外感を覚えた。

「だってまほろちゃん、いっつもふうりちゃんに命令されてるんだもん。あれしようこれしようって言うのはいつもふうりちゃんの方で、まほろちゃんはそれに従ってばかりいるでしょ」

「そんなの友達って言わないよね。そんなの、まるでボスと子分みたいだよね」

「わたしたちはちがうもんね。わたしたちはほんとの友達同士だから、ふうりちゃんとまほろちゃんみたいに、じょうげかんけい? とかないもんね」

「ね」

 再び見つめ合い、二人は頷きながら互いに笑顔を浮かべた。そうしてにこにこしながら互いの愛情を確かめ合い、するともうわたしのことなど忘れて二人の会話は次の話題に移ってしまった。わたしはなにも言えないままその場に立ち尽くすしかできなかった。

 その時わたしが感じていたのは、屈辱でも悲しみでもなくただ純粋な驚きだった。わたしはそれまで全く気付いていなかった。というのは二人の語ったボスと子分としてのふうりとわたしの関係性そのもののことではなく、他人から見ればわたしたちの関係性はそのように誤読されうることの方だった。ふうりもわたしも知れないうち、いつのまにかふうりはボスとなり、わたしは子分となっていた。当事者であるわたしたち以外の他の誰かにとって、少なくともそれは事実であるらしかった。しかしわたしにとってはそのような捉え方はどこまで考えても虚偽でしかなかった。もしあきみちゃんとなつなちゃんの捉え方が全く逆で、例えばふうりが毒見でわたしが殿様とかいう見方だったなら、多少は受け入れられたかもしれなかった。けれどその場合でさえ違和感は少なからず残ったことだろう。なぜならわたしはちっとも把握できていなかったからだった。ほかならないわたしとふうりとの関係性を、どんなかたちにも当てはめることができてはいなかった。

「ふうりとわたしってボスと子分なのかな」

 翌々日、ふうりは完全に復調して彼女の家の玄関から飛び出てきた。二人で常のごとく学校までの道のりを歩く間、ひとりで懸念を抱えたままのわたしはだんだんと不安を覚え始め、とうとう堪えきれずふうりにそう訊ねてしまった。

「は、なにそれ」

 ふうりは立ち止まり、わたしの方を怪訝な顔つきで振り向いた。声のトーンがやたらに低くて、それを聞いた途端わたしはこの先にあまりよくない結末が待っているだろうことを予感した。

「誰が言ったの」

 同じ声音のまま訊ねられ、わたしはしばらく黙ってみたものの、ふうりは不動尊のごとくその場を離れようとしなかった。仕方なしに、あきみちゃんとなつなちゃんが、と小声で告げると、ふうりは「ふーん」と言ったきり無口になって、その後は学校に着くまでひと言も発さず、異様なまでに力強い足取りで地面を蹴り上げ進んでいった。わたしはその背中を追いながら、やっぱりボスと子分なのかな、と余計に不安になっていた。しかしそれだとしてもあきみちゃんとなつなちゃんの言った「かわいそう」にわたしは当てはまっていない気がした。仮にわたしがふうりの子分だとして、それでも決してわたしは『ドラえもん』のジャイアンに対するのび太のポジションではない、どう考えてもスネ夫のそれの方が近かった。そしてスネ夫は『ドラえもん』において最も可哀想ではないキャラクターと言ってもよかった。

「おまえら! ふざけんな!」

 教室に入るなりあきみちゃんとなつなちゃんを見つけたふうりは二人を指差しながら大声で言い放ち、クラスメイト全員の視線を一瞬に集めた。怒りに満ちた彼女の姿はまさしくジャイアンそのものだった。そういえばふうりも音痴だったな、と、ふうりの後ろに隠れるようにして存在を消したわたしはどこか冷静に思い出していた。けれどそれも束の間、ふうりが次に放った言葉にわたしは完全に心を奪われてしまった。

「まほろはわたしのしんゆうなんだよ!」

 続けてふうりは淀みなく弁舌を振るった。

「わたしとまほろはおまえらみたいな嘘っぱちの友情で結ばれてないんだよ。おまえらみたいに卑怯で卑劣で卑猥な関係とはぜんぜん違う、ホンモノの関係なんだよ」

 ふうりはその年頃にしては言葉をよく知っている子どもだったから、「卑劣」も「卑猥」も漢字と意味をきちんと把握して言ったのだろうが、わたしを含め他の子たちはあまりよくわかっておらず、それでもふうりがなにかしらひどい侮辱の言葉を述べていることは目に見えて明白だった。あきみちゃんとなつなちゃんが二人揃ってえんえんと泣き出すまで、そう時間はかからなかった。しかしそれでなおふうりは怒ったままだった。二人を泣かせているのを先生に見つかり、朝の会の時間を目一杯使って皆の前で説教されたふうりだったが、二人と違い一粒の涙も見せることはなかった。最終的には「ごめんなさい」と強制的に謝罪させられ、かたちばかりの仲直りを経たものの、着席したふうりの背中からは依然怒気が抑えきれず滲み出ていた。

 その日家に帰ったわたしは手も洗わずに自室にこもり、本棚の隅に置いてあった新品同様の国語辞典を開いた。すぐに「しんゆう」の項を見つけ、けれど最初に書かれていたのは「心友」の方だった。なんだ、やっぱりジャイアンと同じ「心の友よ」ってやつか。そう思って気落ちしたと同時に「親友」の文字を見つけた。説明を読むと「特別に親しい友達のこと」とあって、わたしは喜べばいいか悲しめばいいかわからない、ひどく微妙で複雑な気分に陥った。その詳細な原因を言葉で探り出す前に、感情の部分がある種の嘆きを訴えていた。今から振り返ってみれば、それは結局のところふうりとわたしの関係性が友達という間柄に規定されてしまったことへの嘆きだったのだろう。ふうりの言った「しんゆう」が、心友であれ親友であれわたしにとっては同じだった。同じ友人としての範疇にあることに変わりなかった。あの頃、わたしは無意識にももっと期待していたのだった。ふうりの言葉によりその期待はあっけなく裏切られ、それまで二人の間にあったとわたしひとりが信じていた、曖昧で大切ななにかは過去から未来まで根こそぎ奪い取られてしまった。

「わたしはまほろを子分だなんて思ってないよ」

 数日後の放課後、帰り道にふうりは呟いた。うん、わかってるよと返すと、ふうりはこちらを見ないまま、一度だって思ったことないよ、と重ねて述べた。その時になってようやくふうりは少しばかり涙を見せた。その場にうずくまったふうりの背中を、わたしはまだ未発達な小さい手のひらで撫でた。わかってるよ、しんゆうだもんね。撫でる手を休ませずわたしは言った。ふうりとわたしはしんゆうだものね。辛抱強く繰り返しているとふうりはだんだんに元気を取り戻していくようだった。そうして彼女を慰めれば慰めるほど、虚しさは胸をえぐるのだった。ふうりが顔を上げた頃、辺りは既に暗がりが広がって、わたしの胸にはぽっかりと大きな穴が空いていた。

 その出来事があってから、ふうりは以前と比べ嘘のように控えめになってしまった。なにに対しても躊躇わず触れていた指先は遠慮を覚え、友達を直接指差すこともなくなり、わたしの手を強引に掴むこともなくなってしまった。「ふうりちゃん優しくなったね」と幾人かの友達がわたしに告げて、皆口を揃えてよかったねと言った。しかしわたしにとってそれはどこまで考えてもいいことではなかった。切り離されてしまったのだと、わたしはひとりで感じていた。わたしにとってそれは初めての孤独だった。どんな時もわたしの手より先に世界に触れてくれたふうりの手は失われ、もうひとりの自分の手を奪われたわたしは、残された十本の指で自ら触れにいかなければならなくなった。



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