ものごころというものがいつ頃わたしに付いたのか、はっきりとした記憶は当然あるはずもないけれど、それでも不思議なことに確信されるのは、ふうりの存在はそれより遥か以前からわたしの側にあったということだった。ふうりとわたしが最初に出会ったのは幼稚園でのことだから、そんなはずのないことは頭では十分理解しているのに、それでも思い返せる限りの古い記憶の中にさえ、彼女の存在は予感としてそこにあった気がしてならない。

 たとえば三歳を迎えたばかりの夏、両親に連れられ熱海を旅行したわたしは生まれて初めて海というものを間近に見たのだが、その青い肌を前に家族三人砂遊びをしていた時、現実ではありえたはずもないのに確かにふうりはわたしの隣でスコップを握り締めていた記憶がある。両目を大きく見開き砂の城を作っては壊し、作っては壊しを延々繰り返していた小さなふうりの姿は、おそらくは幼稚園の狭い砂場で彼女が毎日のように遊んでいた記憶と混同しているのだろうが、それでもわたしの幼少期は思い出す度常にそんな具合である。いたはずのないところにふうりはいつも自然と現れて、本当にふうりがいただろう場面と寸分違わずリアリティを帯びて想起される。

 数年前、母にこの不可思議な現象をさりげなく説明してみた際、きっと馬鹿にされるか不審がられるかのどちらかだと予想していたにもかかわらず、母は特になんの疑問もないように深く頷いて、こう言った。

「だってあなた、ふうりちゃんがお友達になってくれるまで、ほとんど誰とも話そうとしなかったんだもの」

 覚えてるでしょう?と責められるような声音で続けて問われ、わたしは曖昧ながらも首を縦に振るしかなかった。あまり鮮明には思い出せなかったが、そう言われてみると確かに小さな頃のわたしは親族相手でさえ滅多に言葉を交わすことがなかった気がした。人見知りだったのか単に喋るのが苦手だったのか、今となっては原因さえ思い出せないが、ただ、母の言うことが本当なのだとすれば、少しばかり大げさではあるがふうりというのはわたしにとって言葉という概念そのものとともに訪れた存在とも言えるのだろう。はじめに言葉ありきと、世界最大の宗教の聖典でさえ堂々と語っているのだから、全く宗教とは無縁のわたしではあるが、とすれば自分の中でふうりの存在がやけに大きな幅を占めているのも素直に納得がいくというものだ。

 しかしながら常々思い出される幼少期の様々のふうりの姿の中でも、特に強い印象をともなっているのは彼女の発したどんな言葉でもなく、それは手だ。もっと言えば、それはふうりの指だ。なぜならその指先はいつもなにかしらに触れていたからだった。文字通り土に風に火に水に、ふうりの指は幾度も触れた。砂場遊びで爪の中まで真っ黒にした指先も、運動会のリレーの選手に選ばれ誰より早く風を切った指先も、お泊まり会での飯盒炊飯で炊きたてのお米をひっくり返してひどく火傷した指先も、水溜りに浸してわたしの膝に触れた指先も、今でもくっきりと情景が浮かび上がるほどに、それらはわたしの眼裏に深く刻み込まれている。人一倍強い好奇心を持て余し、あらゆるものに触れ回っていた幼い頃のふうりは、内気で引っ込み思案な当時のわたしとは真逆で、だから驚きとともに憧れも強く抱いていたのだろう。あの頃、どこへ行こうがすぐに蹴躓き立ち止まってばかりのわたしの手を、握り取って立ち上がらせどこへでも引っ張っていってくれたのは、いつでもふうりの指だった。ふうりが側にいたから、わたしは周りに広がる世界に少しずつ踏み入ってゆくことができた。ふうりがいなければきっといつまでも怖がってばかり、何ひとつ触れることはできなかっただろう。

「まほろ、見て」

 背後から呼びかけられ、はっと気付いて振り返るとふうりは棚の向こうからわたしに微笑みかけている。いつの間にそちらへ移動していたのだろう、影になってよく見えないが、手には新たな皿を持っているようだ。慌ててふうりのいるところまで進むと、彼女の前には特設コーナーなのか他の棚とは違い高さの低い長机にどことなく古めかしい食器がひとつずつ並べられている。ふうりの手元を確認すると、握られているのは皿ではなく陶製のティーカップで、エレガントな曲線で構成されたそれにはおそらく手描きだろう繊細な薔薇の絵付けがふんだんに施されてある。

「ここにあるの全部ヴィンテージ品だって」

 かわいいなぁ、とため息を漏らしながら、ふうりはカップを目の高さまで持ち上げじっくり鑑賞し始める。その合間にもちらちらとこちらに目線を投げかける様子に、おそらくふうりはわたしの口から発せられる「かわいい」を待っているのだろうと思う。実際そのティーカップはとてもかわいい。ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』にでも出てきそうな、ピンクのマカロンやケーキが横にあったらよく似合いそうな可憐さと優雅さを兼ね備えたデザインだ。

 けれどふうりが持ち上げたことで空席となったティーカップの陳列位置に添えられた、ごく小さな値札にやたらと几帳面なフォントで印字された金額はとてもじゃないがかわいいと言えるものではなさそうだ。本当にティーカップ一客分の値段なのかと思わず二度見してしまうが、どうやらそれで正解であるらしい。

 そうしてわたしが呆気にとられている間もふうりは飽きずにティーカップをあらゆる角度から眺めている。ちゃんと値札を確認したのかしていないのか、ふうりのことだから可能性は五分五分と思われるが、しかしいずれにせよ、ふうりの指はためらわずそれに触れてしまっていただろう。惹かれるがままに吸い寄せられるのがふうりのふうりたる由縁とも言えるかもしれない。それにしてもティーカップから離れる気配を一向に見せないふうりに、わたしはそろそろ空恐ろしさを感じ始め、「皿を買いに来たんだよ」と冷めた声音でその耳元に囁く、するとふうりもさすがに観念したのかカップを元の場所へ戻してくれる。見てただけ、と聞こえるか聞こえないかくらいの小声で言い放つふうりにどこか安堵しつつ、一方ではわたしもまた並べられたヴィンテージ食器のくすんだ輝きに惹かれてしまって、二人の視線はそこからどうにも離れられなくなってしまっている。

 お互い押し黙ったまま長机の前から一歩も動けないわたしたち二人の背中を、わたしは意識の一部を肉体から遠く乖離させて眺めているような気分になる。その光景を写真のように鮮明に焼き付けておこうと、現実のわたしの網膜には目の前の食器だけを映しながら、しかし心では遥かにそちらの方へ意識を向けている。

 白地に青い彩色の施された一枚の皿に、ふうりの視線が一心に注がれていることに気付いた時、既にわたしもその皿に心奪われてしまっていた。わたしの意識はようやく二人の背中からおのずと引き剥がされて、感覚と感情とが一束に結い直されるのを感じる。きれい、と、ふうりは唇から感嘆の声を漏らし、彼女の指はまたも迷わずその肌に触れ、手の中に収める。

 直径二十センチメートルくらいの丸皿だ。中央に描かれた洋館は、洋館とはいえ片田舎のコテージ風のかわいらしいもので、雪積もった勾配の強い屋根から石造りの壁、窓や煙突や前庭の木々に至るまで、すべては青絵具の一色で染められている。皿の縁は少しだけ厚くなって盛り上がり、円周部には洋館の青と同じ色で繊細なアラベスク模様が描かれてある。ふうりが皿を裏返す。いくつかアルファベットの単語が書かれてある中、どうにか解読された「Delft 」との一語をスマホで検索し、それがオランダの都市であることを知る。

 おかげでその皿がオランダ製のものであることはわかったものの、食器の魅力を知ってまだ日の浅いふうりとわたしとでは年代はおろか特性もわからず、その現在価値を教えてくれるのは結局のところ値札に書かれた金額だけのようだ。恐る恐る見ると、それは先ほどのティーカップの倍ほどの値を示している。「わあ」とわたしの口から飛び出るとほぼ同時に、ふうりの口からも「ひゃあ」と細い声が漏れる。もはやわたしから注意するまでもなくふうりは速やかに皿を元の位置へ戻す。

 わたしとふうりと、二人は再び押し黙ってしまう。しかしこのほどは二人の視線は同じ一枚の皿へ、未練がましく熱を帯びて注がれている。わたしたち二人の背中と、その向こうにあるもはや触れられはしない青い皿とを、ひとつの画角に収めることでわたしは新たな思い出を記憶の抽斗の奥に仕舞う。それから意を決して大げさに息を吸い込むと、「あっちの方見てみようか」と、洋食器の店舗の並びを指差し、依然立ち止まったままのふうりの手を取りどうにかその場を後にするよう促す。



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