新居のマンションで共同生活を始めるにあたり、わざわざ新宿の百貨店に来て皿を買うはめになったのは、以前からその迷信深さで定評のあるふうりの母のせいだった。新居に住むなら極力古びたものは持ち込まないようにと、どこで聞いたのか全く根拠のない主張を繰り返す母親に、それではあまりに不経済だと反論を続けたふうりだったが、せめて食器だけでも、お皿の一、二枚だけでもとしつこくごねられて、最後にはそこで折り合いをつけることとなった。しかし話はそれに留まらず、百均で適当な皿を見繕って買い揃えようとしたふうりに対し、ふうりの母はすかさず悲鳴を上げ、もっと上質な皿をきちんと選び抜くよう厳しく言いつけたのだった。あなたもまほろちゃんも十分稼ぎがあるのだから、それくらい惜しくないでしょう。当然のように言いきられ、ふうりとしては他にいくらでもお金の使い道はあると、怒りにまかせ危うく趣味の観劇に費やした現在までの累計額をぶちまけそうになったが、既のところで呑み込んで難を逃れたらしい。年額五十万はいかないまでも三十万は下らない、ここ数年のふうりの激しい押し活動を見知っているわたしとしては、たった皿二枚だけでその浪費ぶりを隠し通せたのだとしたならば、極めて賢明な判断だったと手放しに褒めてやりたいくらいだった。かくいうわたしも自ら稼いだお金で到底必要とは思われない高級な皿を買うことにいくらか文句はあったものの、ふうりと二人ぶつくさ言いつつ数多の食器ブランドを調べるうち、いつしか愉しみを覚え始めたのもまた事実だった。それはふうりも同じだったようで、今日家を出てからこの場に着くまでの彼女はいつになく上機嫌で、観劇に赴く際に見せる異様な熱量の情動にも似た興奮を覚えているらしいことは訊かずとも察せられた。

 陳列棚に隙間なく並んだ、国産品から輸入品に至るまで多種多様の食器の輝きを前に、ふうりはついに興奮を隠しきれず、皿の一枚一枚を手に取り吟味し始めた。随分と念入りに見るものだから、もうここに来て三十分は経つというのに、まだ十枚ほどしか見終えられていない。しかし十枚見ても未だに決められないのにはわたしにも責任があって、これまでふうりが提示したすべての皿に、わたしはどうにもしっくりくるものを見つけられていないのだ。ふうりがふてくされるのもおかしくはないなと、ようやくもって気付いてしまう。

 わたしたちが今いるのはフロアの中央、広く開放的な空間に陳列棚が所狭しと並べられ、その上には世界各地から集められたノーブランドの食器たちが不規則に配置された、いわば陶器市のような雰囲気を意図して設計されたらしいスペースである。このスペースを取り囲むようにして、エスカレーターのある側を除いた三方向の壁際にはそれぞれ洋食器、北欧食器、和食器の各ブランドの店舗が隙間なく並んでいる。隣で新たな皿に熱中し始めたふうりをよそに、わたしは遠目にそれら店舗を含めたフロア全域を眺めつつ、この膨大な量の皿の中からたった二枚の皿を選び出すのに、一体これからどれほど時間がかかることだろうと途方に暮れていると、再びふうりの「ねえ」という先ほどより若干低い声での呼びかけに引き戻されて、ふうりの顔は見ずに視線を直接彼女の手に移す。

 ふうりがこのほど持っているのは先ほどの皿とは打って変わってモダンなデザインのもので、ガラス製で正円形をしたその皿は縁の部分に細い白線の装飾が円周状に施されており、薄さも手伝って涼やかな印象の強いものだ。わたしは皿から視線を外さず少しの間沈黙し、感想を待つふうりに向け最適解を必死で探り出す。

「夏はいいけど、……」

 なぜこんな言い出しを選択したのか、喋り始めてすぐに後悔が胸に広がる。そのまま言葉を続ける勇気も持ち合わせずに、臆病なわたしは唇を噛みふうりの顔を横目に覗う。するとふうりの瞳はわたしの視線を一瞬に捕縛し、もはや逃れられやしないわたしの瞳に映るのは、ふうりの目に浮かぶまるで卑怯者を見るような糾弾の眼差しだ。

「冬はダメってわけね」

 まあ確かに。おっしゃる通り。ふうりは自身に言い聞かせるようにしてひとりごち、皿を戻すと再び背を向け次の棚へと歩き出す。さすがにばつが悪くなったわたしは取り急ぎ目の前の棚に視線を泳がし、特に思案もしないまま一枚を掴み上げると、大声で「これは?」と離れゆくふうりを呼び戻そうとする。

 手にした皿は白無地の四角いランチプレートで、主菜と副菜が同時に盛り付けられるよう三つのエリアに仕切られている。ふうりがUターンしてこちらへ向かってローヒールの硬い靴音を響かせる間、わたしは今度こそ間違いのない肯定的な売り文句を見つけようと頭をフル回転させる。しかし自分としても特別気に入ったわけではないものだから、当然パンチの強いワードは思い付けるはずもなく、そうこうするうちふうりの腕はこちらへ伸びてきて、手がしなり、五本の指が陶器のつるりとした肌に触れる。

「おしゃれカフェっぽくない?」

 二人は今、同じ一枚の皿を手にしている。しかしわたしの方では既に一定時間触れて温くなっている表面温度も、ふうりの方ではまだ冷たいままなのだろう。その分だけの温度差が、同じだけ二人の間にも広がっている。

 それに気付くと同時に思い出されるのは、先日ふうりと二人偶然見たテレビのバラエティ番組で、おしゃれカフェ風と表して元アイドルのママタレントが自作のオムライスを独創的に盛り付けていたワンシーンだ。一目見るなりひどい出来栄えだな、とわたしは心の中で思い、それが無言のうち共感されたのか、ふうりは黙ってリモコンを持つとチャンネルを幾度か変えて、しまいにはテレビの電源を落とした。「おしゃれカフェ」というわたしの一言で、ふうりの脳裏にも同じ光景がよみがえっているだろうことは容易に推し量られる。わたしは唾を呑む。そうすることでしかこの沈黙はどうにもやり過ごせそうにない。

 ふうりの指は、ひとつの言葉も伴わないうちふらりと離れて、そのまま彼女自身も棚の向こうへ離れていってしまう。わたしは皿を無造作に戻し、彼女の指が持つ体温を次の皿に奪われてしまわないうち、小走りに追いかける。




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